積雪のためセンターラインが消え、道路が狭くなっている雪道での事故の過失割合

道交法4条の「道路標識等」の「等」に道路標示が含まれることの意味

道交法4条

都道府県公安委員会は、道路における危険を防止し、その他交通の安全と円滑を図り、又は交通公害その他の道路の交通に起因する障害を防止するため必要があると認めるときは、政令で定めるところにより、信号機又は道路標識を設置し、及び管理して、交通整理、歩行者又は車両等の通行の禁止その他の道路における交通の規制をすることができる・・・

 

道交法施行令1条の2の1項

法4条1項の規定により都道府県公安委員会が信号機又は道路標識若しくは道路標示を設置し、及び管理して交通の規制をするときは、歩行者、車両又は路面電車がその前方から見やすいように、かつ、道路又は交通の状況に応じ必要と認める数のものを設置し、及び管理しなければならない。

 
わかりづらい道路標識について書いた記事で書いたことだが、道交法4条の「道路標識等」の「等」に道路標示が含まれることの意味は大きいとした。どういうことかというと、

「執務資料・道路交通法解説16訂版(P87-)」によれば、道路標識等は適法かつ客観的に認知できるものであることが要求され、その具体的な内容としては、
 

当初道路標識等を適法かつ客観的に認知できるように設置してあったとしても降雪のため道路標識の標板が白くおおわれ、その意味が読みとれないとき又は道路標示が見えなくなっているとき(煤煙・じんあい等による場合も同じ)は、その道路標識は一時的ではあるが、その間は有効な道路標識等ということはできないので、交通規制の効力は失われたものと解さなければならない。

この場合、道路標識と道路標示を併設しなければならないとされている交通規制については、いずれか一つでも見えなくなったときは、その規制の効力を失うが、道路標識又は道路標示を設けて行う交通規制、例えば、はみ出し禁止については、両者を併置することが義務づけられていないので、道路標識でもよく道路標示でもよいことになるので、降雪等のため併設された一方の道路標示が見えなくなっていても、他方の道路標識に視認性があれば、なお、有効な交通規制ということができる。

 
すなわち、道路標識だけでなく、「センターライン」や「車道外側線」などの道路標示が見えなくなったときも、交通規制の効力は失われるからである。このことを裏付ける判例を見つけたので、旧ブログで記事として公開したら、かなりの反響があった。裁判官だった方がこの記事に注目してくれて、フェイスブックだったかツイートだったかで取り上げていただいたため拡散したのである。以下に若干の加筆をして再録する。

現況でやるのか、雪に埋もれてみえなくても見えているものとしてやるのか

信号のない交差点における出合い頭衝突事故。交差点中央に中央線が走っている交差点なら、通常の基本の過失割合は、優先道路側のB車側が10、そうでない側のA車が90である。しかし、事故当時、事故現場は雪で覆われているため、中央線も見えず、路肩に雪山が存在するため、車道も狭くなっていたら、どうなるのか。雪で埋まったため道路標示が見えなくなった現場は、冬になれば石川県ではいたるところに現出する。そして、そこで事故も頻繁に起こっている。そのような事故で過失割合をどのように決めたらいいのだろうか。

考え方としてはふたつあると思う。実際は、積雪のためにセンターラインも車道外側線も雪に埋もれて見えなくなっている。その現況で過失割合を決める。もうひとつが、雪がなかったものとして、すなわち積雪のため見えなくなっているセンターラインや車道外側線があったものとして決める。

そんなの現況でやるのが当たり前だろと思われた方も多いと思う。センターラインが見えないのに見えているものとしてやるなんてありえない。たしかにそのとおり。そのとおりなのは、先に条文の解説としても書いた。しかし、調査会社ではスコップ持参で現場確認に行くのが決まりだった。雪に覆われているセンターラインがどこにあるのか調べるためである。ぼくだけがそんなことをやっていたのではなくて、先輩方がそうしていたからぼくもそれを見習っただけである。それが間違いであることが以下に紹介する判例ではっきりした。
 

旭川簡裁 昭和49年3月28日判決

判例の現場は以下のとおり。
yukimiti
 
判決文から引用する。

1)道路交通法2条の規定に拘わらず除雪の堆積状態により、その一般交通の用に利用されるという道路の属性に変更をきたし、除雪された部分だけが有効に通行の用に供しうるので、同部分が道路としての客観性をもつにすぎなくなっていると解するのが相当である。すると、本件交差点における2路の幅員には広狭の差がほとんどない状態であることも明らかである。

2)事故当時交差点の中まで引かれた中央線表示は圧雪のため認識できない状況にあったのだから、車両の通行を規制するために引かれた規制表示としての効力を失っているものと認めなければならず、結局、本件事故にはいずれかが優先道路となすことはできない。

3)したがって、上記2路のいずれを通行する車両にも道路交通法上の本件交差点において徐行する義務があることは明らかである。

以上から、このケースでは「優先道路」ではなく、「左方優先」で決することになる。

道路標示が見えなくなったためその効力が失われたとき、今回のように、雪がなければ優先道路だったものが優先道路でなくなったり、センターラインが見えなくなったため路面表示のセンターラインが意味を失うため、別にセンターラインを想定しなければならなくなるため、過失割合に大きく影響してくる。

また、今回は車道幅によっては、「左方優先」でなく「広路狭路」で決することも考えられた。

道路・車道の予備知識

広路について(判タ38より引用)

交差する道路の一方の幅員が他方よりも明らかに広い道路をいう(法36条2項、3項)。「明らかに広い」とは、車両の運転者が交差点の入口においてその判断により道路の幅員が客観的にかなり広いと一見して見分けられるものをいう(最高裁 昭和45年11月10日判決)。

 
・・・となっているがわかりにくい説明だと思う。「道路」は「歩道等」も含むためである。「本条の道路の幅員の広狭は、歩道または路側帯を除いた車道部分の幅員によって比較しなければならない」(最高裁 昭和47年1月21日判決)。

道路とは(自研センター資料にもとづく)
自転車歩行者道路上施設
自転車道
歩道
植樹帯
側帯中央帯
路肩
車道停車帯交通島(車道施設)
副帯
屈折車線
変速車線
登坂車線
車線

つまり、上図の、車道は、車道外側線外部分(路肩に含まれる)を含めたところの幅員が対象になる。判決文や弁護士の書いたものを読んでいてよくあることなので注意してほしいのだが、路側帯と車道外側線外は形態的には同じように見えるが、まったく別物である。その区別がされておらず、同じだと思って書いている。なお、車道外側線とは、通行するときに端に寄りすぎると危ないからこの線の右側を通って下さいという意味の区画線のことである。

rosokutai

この図だと、赤矢印のがそうである。線のどこ(中央か端からか)から計測するかも注意してほしい。

(なお、判例の現場図面の車道幅は、判例で紹介した実際の事故の車道幅の数値を簡略化して載せたので、正確でないことをお断りする。)

(16・5・17追記)
車道外側線外は車道かそうでないかについてだが、上記分類表によるなら「路肩」になるため、「車道」ではなくなるが、上記リンク先の控訴審判決では、あえて「車道」としている。ネット情報をみるかぎり、圧倒的に車道扱いが多い。だとすると、上記分類表が間違っていることになる。引用元は書けないが、ここが間違えることがあるのだろうかというところが間違えたことになる。しかし、車道外側線外(左)の車両通行が禁止されない実質から車道扱いとしたほうが説明の上で好ましいので、ここでは車道に含めることにする。もうひとつ、説明をしないといけない箇所があるが、もう少し調べた上で追記したい。

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知識は刀という武器と同じ

hitininnno
その昔、武士という職業が存在しました。この武士は帯刀を許された職業のことであり、刀の専門家です。殿様を頂点にして、殿様に雇用され、殿様を守るために武器である刀の技術を日夜みがいていた。

この武器である刀自体は殿様を守るためにも使えるし、農民に加勢して殿様に刃向かうためにも使えます。しかし、悲しいかな、現実は殿様を守るために使われた例が圧倒的に多く、農民に加勢するために使われた例など不幸にしてきわめて少なかった。ごく稀に後者のような武士が現れますが、こういう武士こそ庶民にとっての英雄であり、「七人の侍」はまさにそのようなタイプの武士たちでした。

利益が一致しているか相反しているかが重要

したがって、問題はその使い手自身にあります。使い手がどちらの側に立つかで知識もそれぞれの側の武器になる。そして、その使い手がどちらの側に立つかは双方の利益が一致するか相反するかでふつうは決まってきます。

この、肝心要のことを説明したサイトが皆無といっていいほどにみあたらないのは不思議なことです(というか、あえて否定しているサイトさえいくらでもみつかるくらいです)。

記事を読んでいただければたちどころにわかることですが、当事務所は「立場」を鮮明にしております。あえて鮮明にしているのは、人間や社会に対する見方は、その人自身の立場から自由にはならないからです。中立を装うことは考察を浅くし、論旨を不明確にし、自己を無責任な立場に置くことになる。「立場」のない「立場」などありようがない。当事務所の立場は、ぼく自身が社会的弱者であるため、弱者の立場に徹することです。ぼくのような弱虫は「七人の侍」のようには決してなれないけれど、せめてその心意気だけでも真似して、社会的強者に阿らないようにしたい。そういう気持ちで当サイトをたちあげました。丸山真男のことばを最後に引用しておきます。

丸山真男から

ゲーテは「行動者は常に非良心的である」といっておりますが、私たちが観照者、テオリア(見る)の立場に立つ限り、この言葉には永遠の真実があると思います。つまり完全にわかっていないものをわかったとして行動するという意味でも、また対立する立場の双方に得点と失点があるのに、決断として一方に与するという意味でも、非良心的です。にもかかわらず私たちが生きていく限りにおいて、日々無数の問題について現に決断を下しているし、また下さざるを得ない。純粋に観照者の立場、純粋にテオリアの立場に立てるものは神だけであります。その意味では神だけが完全に良心的であります。

私たちの社会というものは、私たちの無数の行動の網と申しますか、行動の組合せから成り立っております。社会がこうして私たちの行動関連から成り立つ限りにおいて、私たちは行動あるいは非行動を通じて他人に、つまり社会に責任を負っています。その意味では純粋に「見る」立場、ゲーテの言う意味での完全に良心な立場というものは、完全に無責任な立場ということになります。

したがってこの点でも神だけが、完全に無責任でありうるわけであります。認識することと決断することとの矛盾中に生きることが、私たち神でない人間の宿命であります。私たちが人間らしく生きることは、この宿命を積極的に引き受け、その結果に責任を取ることだと思います。この宿命を自覚する必要は行動関連が異常に複雑になった現代においていよいよ痛切になってきたのです。

世のなかには一方では、認識の過程の無限性に目をふさぎ、理論の仮説性を忘れる独断主義者もいれば、またそもそも認識の意味自体を頭から蔑視する肉体的行動主義者がいます。しかし他方その半面では、物事はそう簡単にはイエスかノーかきめられないのだ、もっとよく研究してからでなければなんともいえないという名目の下に、いつも決断を回避することが学者らしい態度だという考え方がかなり強い。

あるいは対立する政治的争点に対して、あれももっとも、これももっとも、逆にそれを裏返しとして、あれもいけない、これもいけないということで、結局具体的な争点に対して明瞭な方向性を打ち出すことを避ける態度をもって、良識的であるとか、不偏不党であるとか考える評論家やジャーナリストもかなりいるようであります。

たびたびゲーテの言葉を引いて恐縮ですが、ゲーテはこういうことをいっています。「自分は公正であることを約束できるけれども、不偏不党であるということは約束できない。」今申しましたような世上いわゆる良識者は対立者に対してフェアであるということを、どっちつかずということと混同しているのではないでしょうか。
「現代政治の思想と行動」丸山真男 P452-454

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