宮尾氏がコケるとみなコケる後遺障害のネット情報

SEO的にはコンテンツ重視というけれど

後遺障害に関する記事が検索画面で上位に表示されなくなった。別ブログで記事出しを始めた5年近く前は、後遺障害に関する記事をアップすると、そのうちの半分くらいは上位表示、すなわち検索画面のトップ面で表示された。しかし、現在はどんなに頑張って書いてみてもトップ面での表示は至難になった。内容的に劣るならあきらめもつく。SEO的にはコンテンツ重視だといわれているが、それだけではなさそうだ。複数の人からの指摘だと、やはりお金をかけないとなかなか上位には行きづらいらしい。ネットは貧者も対等に戦える分野なのだとおっしゃっていた方がおられたが、必ずしもそうではないかもしれない。

歯の後遺障害の記事について

たとえば最近公開した「歯の後遺障害」は自分としてはかなり力を入れて書いたつもりだ。コンテンツ的にも、若干の加筆が必要だと思うけれど、自己評価の高い記事のひとつである。なのに、第2面でしか表示されない。その記事の中で書いたことだが、交通事故110番・宮尾氏の間違った記事をそのまま受け売りしている記事が検索画面のトップ面にまだ3つもある。つまり間違った情報を乗っけたまま。その後、宮尾氏は訂正記事を書いているにもかかわらず、そのままなのだ。およそ半分ほどが情報としては失格なのだ。ぼくの書いた記事はそれらに順位で負けている。納得がいかない。

醜状障害の記事について

これなんかはまだいいほうだ。醜状障害のほうはもっとひどい。これも最近当ブログで醜状障害についての記事を書いたことがきっかけだった。公開前に、醜状障害について他のサイトがどういう内容のことを書いているのかを調べてわかったのだ。ここは宮尾氏が間違えたままでまだ訂正記事がない。宮尾氏は先覚者だから、常にそのようなリスクを負う。弘法にも筆の誤りであると言ったら言いすぎだが、たまに間違えるのはしかたない。そうでないと、ぼくが書くこともなくなってしまう。問題は、宮尾氏の受け売りをしてそのまま気づかない方だ。だから、宮尾氏がコケたら、ほとんどみんなコケている。コケまくったままだ。間違った情報で被害にあうのは、ドミノ倒しの最後の人・交通事故被害者である。

自信過剰は通過儀礼のようなもの

ぼくは他人の受け売りが必ずしも悪いとは思わない。ぼくのブログ記事は、ほぼ毎日のようにだれかにコピーされている。ぼくもかつてしょっちゅうそういうことやっていたし、今だってやっている。他人の書いた記事を真似するというのは別にかまわないと思う。真似して、そこから自分の実力をあげていって、間違っていることに気づいたら訂正する。その繰り返しだと思う。

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ただ、間違っていることに自分で気づくのはそうとうにむずかしい。だれかに指摘されるまではなかなか気づかない。ぼくがこれまでに書いた記事のなかにも間違いがあると思う。ひょっとしたら思っている以上に。読者は気づいているのに、本人だけ気づいていないのだったら、お笑いだ。

しかし、間違っていることに気づかれたとしても、だれも批判してくれない。批判がないといい気になって人は天狗になるものだ。おれって天才かも? そこまではいかないとしても、過信に陥る。

調査員時代のぼくがそうだった。入社して2、3年目。自分ができる仕事の範囲がそろそろ増えてきたころのことだ。本当はたいして知りもしないくせに、本当は、何が知らないかがわからないだけなのだが、自分が無知であることに気づかず、自信過剰になる。これはぼくに限らず、たいていの人が経験する通過儀礼のようなものだ。知れば知るほど自分が無知だということに気づくようになる。だから、お互いに批判できる人がそばにいることが大切である。そういう人脈作りが必要だと思う。
 
(認知バイアスを示す表)
ninntibaiasu

相互批判できる関係が必要

しかし、相互批判ができる関係を構築するのはたいへんである。ちょっと批判されただけで腹を立てる人がいっぱいいるからだ。中には、批判をしない主義だと宣言されていた士業の方もおられた。それは一見紳士的にみえていいとしても、自分にもし間違いがあったらどうするのだろう。自分は批判しない主義だと宣言されたら、第三者だって、その人に批判しづらくなってしまう。いや、そういう効果を期待してそのように書いたのかもしれない。そのため、ますますだれも批判しなくなり、間違いが永遠に訂正される機会を失うかもしれない。

ぼくは間違いを指摘してくれるほうがよほどうれしい。後遺障害の記事をいくつか書いたけれど、間違っていないだろうかと不安になることがある。実戦から離れていると、ますますそういうふうに思えてくる。もし、間違っていたところの指摘をしてくれると、訂正でき、それ以上恥をかかなくてすむのでたいへん助かる。

そういう人脈作りのために、ぼくはときどき呼びかけているのだが、共鳴してくれる人がほとんどいない。もしそういう人脈がすでにできている人がいるなら、ぼくも参加させてほしい。ぼくだって何らかの貢献はできると思うのでご一報ください。・・・と書いたが、たぶんなしのつぶてなんだろうなあ。ぼくから直接、積極的に、これはと思っている人にアプローチする必要があるのかもしれない。遠方だからという理由でどうかなと思っていたけれど、こればかりは「遠くの親戚より近くの他人」がいいということにはならないように思う。もう少し落ち着いたら、そういうことも考えてみたい。現役でもないふたりだとどうしても限界があるから。でも、そのとき、おまえらじゃだめだと、断られたらどうしよう。

本日はふだん思っていることを思いつくままに書いてしまった。気分を害された人がいたなら、スルーしてください。

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突然、交通事故にあわれた被害者は、怪我をされたり、車を破損などされたりして大変なことです。その損害の賠償をしてもらうために、これから、加害者そして加害者側の損保担当者を相手に示談交渉を進めなければならなくなります。しかし、交通事故は人生でそう何度も経験するわけではありません。なにをどのようにしたらいいのか途方に暮れてしまうのがふつうです。

ところが、事故被害者がまず相手にするのが加害者であり、そして、実際は加害者側損保の担当者です。損保の担当者はそのことで生計を立てているいわばプロであり、百戦錬磨で鍛えた知識と経験があります。かたや、知識も経験もほとんどない事故被害者。そんな素人がプロ相手にどのように交渉していったらいいのでしょうか。

交通事故に詳しい弁護士が知人にいるような幸運な方は別にして、たいていの方は途方に暮れてしまうことでしょう。一昔前は、素人とプロの交渉ごとということにふつうはなって、プロの思い描くストーリーどおりに押し切られるのがふつうでした。しかし、ネットが発達した現在、示談交渉を進める上での情報がネットを検索すればあふれかえっています。が、その情報は正しいものもあれば正しくないものもある。玉石混淆です。それらの情報に接した事故被害者にとって、どの情報が正しくて信頼できるのかがまずわかりづらいし、自分だけでは手に負えなくて、調査や交渉ごとをだれかに任せることも時に必要になってきます。が、ネット上には、われこそは事故被害者のためだと謳っているものばかりなので、実際にいったいだれを信頼したらいいのかわかりません。

知識とは中立なものであること

ここで注意してほしいのは、情報の正確さもさることながら、その情報(知識)そのものが中立なことです。

昔、東大卒が多い自民党が間違えるはずがないと豪語している自民党支持者に会ったことがあります。ぼくは苦笑するしかありませんでした。たしかに東大卒は勉強をいっぱいしているわけだから、その知識量も多くかつ正確だといえるかもしれません。ただ、知識それ自体はあくまで中立なものであり、どちらにも役に立つ武器なのです。したがって、その正確でたくさんの知識をどちらの側に使うかにある。わかりやすいたとえ話をしてみましょう。

知識は刀という武器と同じ

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その昔、武士という職業が存在しました。この武士は帯刀を許された職業のことであり、刀の専門家です。殿様を頂点にして、殿様に雇用され、殿様を守るために武器である刀の技術を日夜みがいていた。

この武器である刀自体は殿様を守るためにも使えるし、農民に加勢して殿様に刃向かうためにも使えます。しかし、悲しいかな、現実は殿様を守るために使われた例が圧倒的に多く、農民に加勢するために使われた例など不幸にしてきわめて少なかった。ごく稀に後者のような武士が現れますが、こういう武士こそ庶民にとっての英雄であり、「七人の侍」はまさにそのようなタイプの武士たちでした。

利益が一致しているか相反しているかが重要

したがって、問題はその使い手自身にあります。使い手がどちらの側に立つかで知識もそれぞれの側の武器になる。そして、その使い手がどちらの側に立つかは双方の利益が一致するか相反するかでふつうは決まってきます。

この、肝心要のことを説明したサイトが皆無といっていいほどにみあたらないのは不思議なことです(というか、あえて否定しているサイトさえいくらでもみつかるくらいです)。

記事を読んでいただければたちどころにわかることですが、当事務所は「立場」を鮮明にしております。あえて鮮明にしているのは、人間や社会に対する見方は、その人自身の立場から自由にはならないからです。中立を装うことは考察を浅くし、論旨を不明確にし、自己を無責任な立場に置くことになる。「立場」のない「立場」などありようがない。当事務所の立場は、ぼく自身が社会的弱者であるため、弱者の立場に徹することです。ぼくのような弱虫は「七人の侍」のようには決してなれないけれど、せめてその心意気だけでも真似して、社会的強者に阿らないようにしたい。そういう気持ちで当サイトをたちあげました。丸山真男のことばを最後に引用しておきます。

丸山真男から

ゲーテは「行動者は常に非良心的である」といっておりますが、私たちが観照者、テオリア(見る)の立場に立つ限り、この言葉には永遠の真実があると思います。つまり完全にわかっていないものをわかったとして行動するという意味でも、また対立する立場の双方に得点と失点があるのに、決断として一方に与するという意味でも、非良心的です。にもかかわらず私たちが生きていく限りにおいて、日々無数の問題について現に決断を下しているし、また下さざるを得ない。純粋に観照者の立場、純粋にテオリアの立場に立てるものは神だけであります。その意味では神だけが完全に良心的であります。

私たちの社会というものは、私たちの無数の行動の網と申しますか、行動の組合せから成り立っております。社会がこうして私たちの行動関連から成り立つ限りにおいて、私たちは行動あるいは非行動を通じて他人に、つまり社会に責任を負っています。その意味では純粋に「見る」立場、ゲーテの言う意味での完全に良心な立場というものは、完全に無責任な立場ということになります。

したがってこの点でも神だけが、完全に無責任でありうるわけであります。認識することと決断することとの矛盾中に生きることが、私たち神でない人間の宿命であります。私たちが人間らしく生きることは、この宿命を積極的に引き受け、その結果に責任を取ることだと思います。この宿命を自覚する必要は行動関連が異常に複雑になった現代においていよいよ痛切になってきたのです。

世のなかには一方では、認識の過程の無限性に目をふさぎ、理論の仮説性を忘れる独断主義者もいれば、またそもそも認識の意味自体を頭から蔑視する肉体的行動主義者がいます。しかし他方その半面では、物事はそう簡単にはイエスかノーかきめられないのだ、もっとよく研究してからでなければなんともいえないという名目の下に、いつも決断を回避することが学者らしい態度だという考え方がかなり強い。

あるいは対立する政治的争点に対して、あれももっとも、これももっとも、逆にそれを裏返しとして、あれもいけない、これもいけないということで、結局具体的な争点に対して明瞭な方向性を打ち出すことを避ける態度をもって、良識的であるとか、不偏不党であるとか考える評論家やジャーナリストもかなりいるようであります。

たびたびゲーテの言葉を引いて恐縮ですが、ゲーテはこういうことをいっています。「自分は公正であることを約束できるけれども、不偏不党であるということは約束できない。」今申しましたような世上いわゆる良識者は対立者に対してフェアであるということを、どっちつかずということと混同しているのではないでしょうか。
「現代政治の思想と行動」丸山真男 P452-454

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