高次脳機能障害ではなく、高次脳機能障害者を知るための本

高次脳機能障害者を知るための本

父が高次脳機能障害にかかってからそのことに関わる記事をいくつか書いた。どれも拙い内容のものだけれど、それでも先月から2件、高次脳機能障害についてのご相談をいただいた。どうして、ぼくのような実名を明かしていない無資格者のあやしげなサイトなのにご相談いただいたのかご相談者には必ず質問することにしている。そしたら、おひとりの方が、高次脳機能障害についてネットで記事を配信している弁護士や行政書士はたくさんいるし、そのうちの何人かの先生とも話したことがあるが、総じて言えることは、彼らの関心は障害にはあっても、障害者にはないのだという。そのように説明された方がいた。

もともと、当サイトで高次脳機能障害の記事を書くようになったのは、後遺障害としての高次脳機能障害への関心からではなかった。父がそれにかかったこと。ぼくの父は失語症なため、自分の思っていることをうまく表現できないことがすごく気になったからである。したがって、高次脳機能障害とそれにかかった父とは切り離せるわけがなく、固くむすぶついている。障害に関心があったというよりも、障害を持ったために苦しんでいる障害者としての父への関心から、記事を書き始めたわけである。

さらにつづけてその人はいう。他の先生方は小難しい専門書を引用したりするし、書いてある内容もまさにその内容どおりの客観的なものなのだが、そこに先生自身がどのように関わったのかが見えてこない。高次脳機能障害は眼に見えない障害のひとつで、外からはよくわからず、それに苦しんでいる患者の内面としての心の問題と切り離せないはずなのに、それら諸先生方は、内面の心の問題には関心がなく、無頓着なのだという。あれはどうしてなのかとぼくに質問する。

それは、たぶん、心の問題は、後遺障害等級に直接かかわらないため、飯だねにならないからではないでしょうかと、ぼくはそのとき思ったことをそのまま答えた。かといって、ぼくだって心の問題にどこまで関心があるのかはよくわからない。勉強を始めたばかりだし・・・と答えたら、いや、すでに心の問題に関心がすごくあることが記事を読んでいてわかるし、引用されている本からわかるのだという。

ということで、ぼくが引用していた3冊の本についても言及されていた。3冊の本というのは、高次脳機能障害のいわゆる解説本ではなくて、高次脳機能障害にかかって心の問題に苦しんでいる患者さんの3冊の本である。


 

 

この3冊の特徴は、いずれの患者さんも医者だということにある。ひとりは失語症の専門家、ひとりは脳科学者、もうひとりが整形外科の先生である。自分に降りかかってきた高次脳機能障害の諸症状について、医学的解明・説明を試みるというのが、ふつうの患者の手記とは違うところである。この患者さんのうちのおひとり、山田さんが、心の問題を見事に解き明かしてくれると絶賛されていたのが山鳥重先生である。そこのところを引用しよう。

退院後、私は自分の障害に関する本を手当たり次第に読みはじめた。際限なく繰り返しているように思える自分の失敗が、自分で腑に落ちなかったからだ。私の頭の中がどうなっているのか、とにかく知りたかった。

だが、納得のいく答えにはなかなか出合えなかった。私の脳で何が起きているのか、明快に解説してくれる本は見つからない。

だが、それもしかたがない。今の私の脳に、世界がどう映るのか。頭の内側のことなんて、実際のところ本人にしかわからない。いくら優秀な医師や研究者でも、患者と同じ体験はできないのだ。

どの本を読んでも、なんか違う。

そういう時期がしばらく続いたある日、「神経心理学」という分野の本を雑誌広告で見つけた。そこには「高次脳機能障害」という名称が、はっきりと記されていた。

さっそく取り寄せ、読んでみて驚いた。この分野の教科書的な本はすでに何冊か読んでいたが、この本は明らかにほかとは違っていた。まさに「私のいる世界」の真実にせまっていた。(P18―)

ここまで絶賛されると、ぼくも読まないわけにいかなくなった。で、山鳥氏の代表作を読み終えたばかりだ。以下がその本である(なお、山田氏が取りあげた本は対談形式らしいから、下に取り上げた本ではないようだ)。


 
この本の中身については、いずれ書く予定の記事で取り上げたい。

辺見庸の「1★9★3★7」完全版



増補前の本はすでに読んでいたが、あらためて完全版を買い求めて読んだ。

作者の辺見庸という人は、海外特派員の経験が長かった元新聞記者だったから、ものの見方が横に広がるという特徴がもともとあった人だ。海外の経験と日本のそれとを比べてものを言う。考える。そういうタイプの人だった。

その対極にあるのが、海外との比較ではなくて、日本の過去との比較に徹する人たちだと思う。横へは少しも広がらないで、日本の過去へと遡ろうとする。そして過去の遡りも明治維新までくらいで、それよりも過去に遡ろうとしないのがその特徴だ。そういう人たちのものの見方はたいてい「偉いさん」の視点でものごとをとらえることになっていて、そこに立脚して、きわめて細い糸でたぐりよせるような歴史観になっている。以前読んだ半藤一利の「昭和史・1926-1945」は、そのひとつ、いや大ベストセラーで、昭和史の第一人者だと言われているらしいからその代表格だろう。


 

辺見のように横へ広がるのと、半藤のように過去に遡るのと、どちらにも一長一短があるだろう。しかし、辺見の場合は、これまでの横への広がりにくわえて、最近の書「1937」で、自分の父親(戦場現場の小隊長クラス)に自分自身を投影することで1937年の日本の過去へと遡ろうとした。そのため、そこでの描写は、細糸をたらすような歴史観ではなく、もっと立体感のある骨太なものになっていると、「1937」を読みながらそのように強く感じた。

日中戦争からアジア・太平洋戦争へ。これが通常の歴史書の描き方である。半藤の「昭和史」もまたその部類である。そして、たいていの歴史書はアジア・太平洋戦争の書き出しが真珠湾攻撃から始める。半藤の著書もまたその類なのだが、たいていの歴史書とはちがって、歴史学会ではトンデモ説の部類のひとつして完全に否定されている真珠湾攻撃陰謀説へと半藤は傾くのである。歴史修正主義の信奉者がアメリカがわざと日本に攻撃させたという類の「陰謀論」に、半藤は見事に乗っかるのである。

アジア・太平洋戦争は真珠湾から始まったのか。

一般向けの書、岩波新書「アジア・太平洋戦争」(吉田裕著)ではこうなっている。

1941(昭和16)年12月8日午前2時15分(日本時間)、日本陸軍のタクミ支隊は英領マレー半島のコタバルへの上陸を開始。続いて3時19分には、日本海軍の機動部隊から発進した第一次攻撃隊が真珠湾への空爆を開始、ここにアジア・太平洋戦争の幕が切って落とされた。(P9)

 

同様の記載は、「昭和の歴史7 太平洋戦争」でも確認できる。


 
日本政府はイギリス政府に対して何ら宣戦布告をしていない。「真珠湾」が「だまし打ち」だろうとなかろうと、たとえ陰謀説どおりに、アメリカが「やらせた」のだったとしても(そんな証拠はないが)、少なくとも日本はイギリスに対しては完全な一方的奇襲を敢行したのである。オランダや中国に対しては、宣戦布告の対象にすらならなかった。

たいていの歴史書は、その立場にかかわらず、戦争を「真珠湾攻撃」から語り始める。そして12月8日といえば「真珠湾の日」と記憶されている。しかし、時間の順序からいえばマレー半島侵攻から始めるべきなのだ。このあたりが、陰謀説が流布される下地になっているように思う。

アジア・太平洋戦争は「真珠湾」からではなく、「マレー」から始まった。半藤の歴史修正主義色の濃い「昭和史」がベストセラーになり、「リベラル」界隈でも一定の評価を得ている現象は、日本風味「リベラル」の限界を示すものといえそうだ。

なぜ日本は没落するか


1999年に書かれた文章である。森嶋は現状を的確に分析するとともに、今後のさらなる日本の没落をも描いており、その予測がほぼ的中しているのが恐ろしい。落合陽一さんという方が、2015年末、ネット上でつぶやいた内容を参考のためにご紹介しておこう。


 

 
「アベノミクス、完全に成功 戦後3番目の長期好景気突入」などと、政府は自画自賛しているけれどもね。年金ファンドで株価を釣り上げ、経済政策がうまくいっているように見せかけているだけだが、現在、上場企業過半数で年金ファンドが第一株主になっている。3本の矢のアベノミクスの失敗と合わせて大きなツケを国民に負わせ、一人当たりGDPはさらに落ち込むことだろう。日本はどこまで没落するのだろうか。

先月・今月に読んだほかの本


 

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ところが、事故被害者がまず相手にするのが加害者であり、そして、実際は加害者側損保の担当者です。損保の担当者はそのことで生計を立てているいわばプロであり、百戦錬磨で鍛えた知識と経験があります。かたや、知識も経験もほとんどない事故被害者。そんな素人がプロ相手にどのように交渉していったらいいのでしょうか。

交通事故に詳しい弁護士が知人にいるような幸運な方は別にして、たいていの方は途方に暮れてしまうことでしょう。一昔前は、素人とプロの交渉ごとということにふつうはなって、プロの思い描くストーリーどおりに押し切られるのがふつうでした。しかし、ネットが発達した現在、示談交渉を進める上での情報がネットを検索すればあふれかえっています。が、その情報は正しいものもあれば正しくないものもある。玉石混淆です。それらの情報に接した事故被害者にとって、どの情報が正しくて信頼できるのかがまずわかりづらいし、自分だけでは手に負えなくて、調査や交渉ごとをだれかに任せることも時に必要になってきます。が、ネット上には、われこそは事故被害者のためだと謳っているものばかりなので、実際にいったいだれを信頼したらいいのかわかりません。

知識とは中立なものであること

ここで注意してほしいのは、情報の正確さもさることながら、その情報(知識)そのものが中立なことです。

昔、東大卒が多い自民党が間違えるはずがないと豪語している自民党支持者に会ったことがあります。ぼくは苦笑するしかありませんでした。たしかに東大卒は勉強をいっぱいしているわけだから、その知識量も多くかつ正確だといえるかもしれません。ただ、知識それ自体はあくまで中立なものであり、どちらにも役に立つ武器なのです。したがって、その正確でたくさんの知識をどちらの側に使うかにある。わかりやすいたとえ話をしてみましょう。

知識は刀という武器と同じ

hitininnno
その昔、武士という職業が存在しました。この武士は帯刀を許された職業のことであり、刀の専門家です。殿様を頂点にして、殿様に雇用され、殿様を守るために武器である刀の技術を日夜みがいていた。

この武器である刀自体は殿様を守るためにも使えるし、農民に加勢して殿様に刃向かうためにも使えます。しかし、悲しいかな、現実は殿様を守るために使われた例が圧倒的に多く、農民に加勢するために使われた例など不幸にしてきわめて少なかった。ごく稀に後者のような武士が現れますが、こういう武士こそ庶民にとっての英雄であり、「七人の侍」はまさにそのようなタイプの武士たちでした。

利益が一致しているか相反しているかが重要

したがって、問題はその使い手自身にあります。使い手がどちらの側に立つかで知識もそれぞれの側の武器になる。そして、その使い手がどちらの側に立つかは双方の利益が一致するか相反するかでふつうは決まってきます。

この、肝心要のことを説明したサイトが皆無といっていいほどにみあたらないのは不思議なことです(というか、あえて否定しているサイトさえいくらでもみつかるくらいです)。

記事を読んでいただければたちどころにわかることですが、当事務所は「立場」を鮮明にしております。あえて鮮明にしているのは、人間や社会に対する見方は、その人自身の立場から自由にはならないからです。中立を装うことは考察を浅くし、論旨を不明確にし、自己を無責任な立場に置くことになる。「立場」のない「立場」などありようがない。当事務所の立場は、ぼく自身が社会的弱者であるため、弱者の立場に徹することです。ぼくのような弱虫は「七人の侍」のようには決してなれないけれど、せめてその心意気だけでも真似して、社会的強者に阿らないようにしたい。そういう気持ちで当サイトをたちあげました。丸山真男のことばを最後に引用しておきます。

丸山真男から

ゲーテは「行動者は常に非良心的である」といっておりますが、私たちが観照者、テオリア(見る)の立場に立つ限り、この言葉には永遠の真実があると思います。つまり完全にわかっていないものをわかったとして行動するという意味でも、また対立する立場の双方に得点と失点があるのに、決断として一方に与するという意味でも、非良心的です。にもかかわらず私たちが生きていく限りにおいて、日々無数の問題について現に決断を下しているし、また下さざるを得ない。純粋に観照者の立場、純粋にテオリアの立場に立てるものは神だけであります。その意味では神だけが完全に良心的であります。

私たちの社会というものは、私たちの無数の行動の網と申しますか、行動の組合せから成り立っております。社会がこうして私たちの行動関連から成り立つ限りにおいて、私たちは行動あるいは非行動を通じて他人に、つまり社会に責任を負っています。その意味では純粋に「見る」立場、ゲーテの言う意味での完全に良心な立場というものは、完全に無責任な立場ということになります。

したがってこの点でも神だけが、完全に無責任でありうるわけであります。認識することと決断することとの矛盾中に生きることが、私たち神でない人間の宿命であります。私たちが人間らしく生きることは、この宿命を積極的に引き受け、その結果に責任を取ることだと思います。この宿命を自覚する必要は行動関連が異常に複雑になった現代においていよいよ痛切になってきたのです。

世のなかには一方では、認識の過程の無限性に目をふさぎ、理論の仮説性を忘れる独断主義者もいれば、またそもそも認識の意味自体を頭から蔑視する肉体的行動主義者がいます。しかし他方その半面では、物事はそう簡単にはイエスかノーかきめられないのだ、もっとよく研究してからでなければなんともいえないという名目の下に、いつも決断を回避することが学者らしい態度だという考え方がかなり強い。

あるいは対立する政治的争点に対して、あれももっとも、これももっとも、逆にそれを裏返しとして、あれもいけない、これもいけないということで、結局具体的な争点に対して明瞭な方向性を打ち出すことを避ける態度をもって、良識的であるとか、不偏不党であるとか考える評論家やジャーナリストもかなりいるようであります。

たびたびゲーテの言葉を引いて恐縮ですが、ゲーテはこういうことをいっています。「自分は公正であることを約束できるけれども、不偏不党であるということは約束できない。」今申しましたような世上いわゆる良識者は対立者に対してフェアであるということを、どっちつかずということと混同しているのではないでしょうか。
「現代政治の思想と行動」丸山真男 P452-454

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