保険調査を行なう上で、決してやってはいけないこと

(上の画像は、「PIPPAのイラスト練習帳」より拝借いたしました)

保険調査とはトラブルの中に自ら入っていくもの

保険調査員は、保険金を出していいのかどうか、次に、出すとしてどれくらい出すべきなのか、その基礎となりうる事実を調べるのがその仕事である。だから、人と会って話をしないとなにごとも始まらない。そして、人に会うといっても、もともとトラブルになっている中にはいっていくのだから、保険調査は細心の注意を要する仕事だ。

そのようなしだいだから、保険調査にはこれをやったらいけないという「べからず」がいくつも存在する。

保険調査上の「べからず」

遅刻をするべからず

これは保険調査にかぎらないけれど、まず、遅刻はする「べからず」。ぼくは面談時間の30分前に面談場所に行くことにしていたが、いちどだけ、30分前に到着するつもりが、当時はまだカーナビというものがあまり普及していなかったから、道に迷ってしまい、面談場所に着いたのが予定時刻よりも30分も遅れてだった。もちろん、携帯電話で、道に迷っていて遅れることを伝えてあるのだが、それでもこれはたいへんまずかった。

調査は、相手と対等の関係でないと成立しないからである。であるのに、面談の初めから遅刻したことの謝罪から始めなければならない。もし相手が狡猾なら、これで相手のペースにならざるえない。これが保険金詐欺などのいわゆるモラル系の調査だともうアウトである。しかし、そのときは交通事故の状況を確認するための面談だった。ふつうは、遅れて申し訳ございませんと謝ればそれでたいてい丸く収まる。しかし、そのときの事故状況の確認は、双方がおれが信号青だと主張する真っ向から食い違う事故であった。どちらかがウソを言っている可能性の高い事案だった。相手を重症を負わせてそれでも平気でウソをついているかもしれない連中が相手なのである。この面談はぼくの大失敗に終わった。

女性宅にはいるべからず

次は、面談のために女性宅へ訪問する「べからず」。玄関先で用をすますか、それができないなら喫茶店など、第三者がいるところまでお越し願う。理由はわかるだろう。「それでもボクはやっていない」という痴漢にされた映画があったが、まあそういうことである。

痴漢扱いにされなくても、色仕掛けで誘われることもありえる。ぼくの勘違いかもしれないが、あるとき、交通事故状況を説明するための図面上で、ぼくの指に自分の指をからめてくる女性がいた。あんたに言い寄ってくる物好きな女がこの世にいるとは思えんなあと妻にゲラゲラ笑われそうだが、事実なんだからしかたがない。かなり魅力的な女性だったので、平常心を失いそうだった(笑)。こういう経験はぼく以外の人もしている。

利益を受け取るべからず

最後は、訪問先から「おみやげ」等は決して受けとる「べからず」。「おみやげ」を受けとってしまうと、調査に手心を加える遠因になる。だから、決して受けとるなということだ。ただ、お茶やコーヒー程度は許容される。

ぼくもお茶はいただいたが、「おみやげ」は決して受けとらなかった。「おみやげ」を受けとってしまうと、次に出てくるのが調査への手心の依頼かもしれない。ぼくもそういう「依頼」を一度だけされたことがある。直接的な表現でなくて、以心伝心というか、私の言いたいことがわかるでしょというような「依頼」のされ方である。ときに数千万円の保険金支払事案だとそういうことも十分ありえる。

対象者がぼくのような一般庶民相手でもそういうことがありえるから、細心の注意を要するのだが、相手が権力や財力を持っている人だったら、もっと徹底しないといけないだろう。だから、欧米のジャーナリストはこういう人たちに会うときは、コーヒー一杯もごちそうになるなときびしく言われている。

田中角栄の才能

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田中角栄の評伝を読んだことがある。田中は、相手をみて相手が何を望んでいるのかすぐに見抜ける頭のよさ、天性のひらめきがあったとその評伝に書いてあった。「望み」といっても、たいていはおカネかオンナか名誉かだろう。田中に擦り寄ってくる人間なんて、権力者にすりよっていい思いをしたいという人間も多かっただろうから、そういう天性のひらめきがなくても、そういう連中は顔にはっきり書いてあるからたちどころにわかるはずだ。きっと、モノほしい顔をしているんだろうなあ。田中の才能というのはそういうことの見極めではなくて、田中に敵対する人物に対しても、ものの見事に懐柔してしまうことなのだろう。

自分が弱い人間だったら近づくな

人間ってそれほどに弱い存在だ。ぼくだって、目の前に大金を積まれたり、美女を紹介されたりしたら、ビンボン人でスケベ心もふつうにあるぼくのことだから、それでも平常心を保てる自信なんて、ぼくにはまったくない。ちょっと迷ったあげく、まあいいか、みんなやっていることだしとなって、これも大人の身の処し方と言うものだとかなんとかそれらしい理由をでっちあげて自分を納得させることだろう。そして、懐柔されてしまうに違いない。ぼくもそういういいかげんなところがあるふつうの人間だ。だから、そういうところには最初から近づかないようにしている。

桐生悠々の身の処し方

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ところで、反骨のジャーナリストとして知られる桐生悠々は、井出孫六氏が書いた評伝「抵抗の新聞人 桐生悠々」(岩波新書)によると、そのあたりが徹底していた。桐生は権力者に決して近づかなかった。取材でやむなく近づいたとしても、「毛」ほどでも、利益になりうるような供与は一切拒否した。人間の弱さを知っていたからだと思う。


現代のジャーナリストとかいわれる人たち、マスコミ人たちは、首相と高級寿司店にいって飲んだり食ったりをしょっちゅうやっている。寿司をおごってもらったくらいで手心を加えることはないと反論しているらしいから、そうとうにできた人格の持ち主ばかりのようだ。すばらしい。首相から寿司をおごっていただけたら何でもハイハイとやってしまいかねない人格下劣なぼくとは大違いというわけだ。それにしては、モノほしそうな人相の方たちばかりのように見えてしまうのは、ぼくの偏見なのにちがいない。

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突然、交通事故にあわれた被害者は、怪我をされたり、車を破損などされたりして大変なことです。その損害の賠償をしてもらうために、これから、加害者そして加害者側の損保担当者を相手に示談交渉を進めなければならなくなります。しかし、交通事故は人生でそう何度も経験するわけではありません。なにをどのようにしたらいいのか途方に暮れてしまうのがふつうです。

ところが、事故被害者がまず相手にするのが加害者であり、そして、実際は加害者側損保の担当者です。損保の担当者はそのことで生計を立てているいわばプロであり、百戦錬磨で鍛えた知識と経験があります。かたや、知識も経験もほとんどない事故被害者。そんな素人がプロ相手にどのように交渉していったらいいのでしょうか。

交通事故に詳しい弁護士が知人にいるような幸運な方は別にして、たいていの方は途方に暮れてしまうことでしょう。一昔前は、素人とプロの交渉ごとということにふつうはなって、プロの思い描くストーリーどおりに押し切られるのがふつうでした。しかし、ネットが発達した現在、示談交渉を進める上での情報がネットを検索すればあふれかえっています。が、その情報は正しいものもあれば正しくないものもある。玉石混淆です。それらの情報に接した事故被害者にとって、どの情報が正しくて信頼できるのかがまずわかりづらいし、自分だけでは手に負えなくて、調査や交渉ごとをだれかに任せることも時に必要になってきます。が、ネット上には、われこそは事故被害者のためだと謳っているものばかりなので、実際にいったいだれを信頼したらいいのかわかりません。

知識とは中立なものであること

ここで注意してほしいのは、情報の正確さもさることながら、その情報(知識)そのものが中立なことです。

昔、東大卒が多い自民党が間違えるはずがないと豪語している自民党支持者に会ったことがあります。ぼくは苦笑するしかありませんでした。たしかに東大卒は勉強をいっぱいしているわけだから、その知識量も多くかつ正確だといえるかもしれません。ただ、知識それ自体はあくまで中立なものであり、どちらにも役に立つ武器なのです。したがって、その正確でたくさんの知識をどちらの側に使うかにある。わかりやすいたとえ話をしてみましょう。

知識は刀という武器と同じ

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その昔、武士という職業が存在しました。この武士は帯刀を許された職業のことであり、刀の専門家です。殿様を頂点にして、殿様に雇用され、殿様を守るために武器である刀の技術を日夜みがいていた。

この武器である刀自体は殿様を守るためにも使えるし、農民に加勢して殿様に刃向かうためにも使えます。しかし、悲しいかな、現実は殿様を守るために使われた例が圧倒的に多く、農民に加勢するために使われた例など不幸にしてきわめて少なかった。ごく稀に後者のような武士が現れますが、こういう武士こそ庶民にとっての英雄であり、「七人の侍」はまさにそのようなタイプの武士たちでした。

利益が一致しているか相反しているかが重要

したがって、問題はその使い手自身にあります。使い手がどちらの側に立つかで知識もそれぞれの側の武器になる。そして、その使い手がどちらの側に立つかは双方の利益が一致するか相反するかでふつうは決まってきます。

この、肝心要のことを説明したサイトが皆無といっていいほどにみあたらないのは不思議なことです(というか、あえて否定しているサイトさえいくらでもみつかるくらいです)。

記事を読んでいただければたちどころにわかることですが、当事務所は「立場」を鮮明にしております。あえて鮮明にしているのは、人間や社会に対する見方は、その人自身の立場から自由にはならないからです。中立を装うことは考察を浅くし、論旨を不明確にし、自己を無責任な立場に置くことになる。「立場」のない「立場」などありようがない。当事務所の立場は、ぼく自身が社会的弱者であるため、弱者の立場に徹することです。ぼくのような弱虫は「七人の侍」のようには決してなれないけれど、せめてその心意気だけでも真似して、社会的強者に阿らないようにしたい。そういう気持ちで当サイトをたちあげました。丸山真男のことばを最後に引用しておきます。

丸山真男から

ゲーテは「行動者は常に非良心的である」といっておりますが、私たちが観照者、テオリア(見る)の立場に立つ限り、この言葉には永遠の真実があると思います。つまり完全にわかっていないものをわかったとして行動するという意味でも、また対立する立場の双方に得点と失点があるのに、決断として一方に与するという意味でも、非良心的です。にもかかわらず私たちが生きていく限りにおいて、日々無数の問題について現に決断を下しているし、また下さざるを得ない。純粋に観照者の立場、純粋にテオリアの立場に立てるものは神だけであります。その意味では神だけが完全に良心的であります。

私たちの社会というものは、私たちの無数の行動の網と申しますか、行動の組合せから成り立っております。社会がこうして私たちの行動関連から成り立つ限りにおいて、私たちは行動あるいは非行動を通じて他人に、つまり社会に責任を負っています。その意味では純粋に「見る」立場、ゲーテの言う意味での完全に良心な立場というものは、完全に無責任な立場ということになります。

したがってこの点でも神だけが、完全に無責任でありうるわけであります。認識することと決断することとの矛盾中に生きることが、私たち神でない人間の宿命であります。私たちが人間らしく生きることは、この宿命を積極的に引き受け、その結果に責任を取ることだと思います。この宿命を自覚する必要は行動関連が異常に複雑になった現代においていよいよ痛切になってきたのです。

世のなかには一方では、認識の過程の無限性に目をふさぎ、理論の仮説性を忘れる独断主義者もいれば、またそもそも認識の意味自体を頭から蔑視する肉体的行動主義者がいます。しかし他方その半面では、物事はそう簡単にはイエスかノーかきめられないのだ、もっとよく研究してからでなければなんともいえないという名目の下に、いつも決断を回避することが学者らしい態度だという考え方がかなり強い。

あるいは対立する政治的争点に対して、あれももっとも、これももっとも、逆にそれを裏返しとして、あれもいけない、これもいけないということで、結局具体的な争点に対して明瞭な方向性を打ち出すことを避ける態度をもって、良識的であるとか、不偏不党であるとか考える評論家やジャーナリストもかなりいるようであります。

たびたびゲーテの言葉を引いて恐縮ですが、ゲーテはこういうことをいっています。「自分は公正であることを約束できるけれども、不偏不党であるということは約束できない。」今申しましたような世上いわゆる良識者は対立者に対してフェアであるということを、どっちつかずということと混同しているのではないでしょうか。
「現代政治の思想と行動」丸山真男 P452-454

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