道路標識や案内標識は、どうしてあんなにわかりづらいのか

道路標識は文字化するほどわかりづらくなる

日本の道路上の標識はそれが道路標識であれ案内標識であれわかりづらいし、すぐには理解不能なものも少なくない。もっとわかりやすくするためにはどうしたらよいのだろうか。たとえばこんなふうに、
 
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絵にしたら、実にわかりやすい。一瞬にして何が言いたいことなのかが理解できる。メッセージの内容としては単純だし、そこに一度翻訳を強いられることがないからだ。また、シンボリックな記号は翻訳を強いられるのがふつうだが、だれでもすぐに意味が理解できる記号なら、これも瞬時に理解できる。
 
たとえば
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しかし、中にはこんな混乱するものもある。
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【画像は、perfect comes from perfectからの出典。画像だけでなく記事自体もたいへん勉強になり、すばらしいので、ぜひ読んでいただきたい。】
 
では、伝えたい情報の内容を複雑かつ大量にした、これらはどうだろうか。

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クルマの運転中にこんな掲示をわき目で見ても、まず理解できないだろう。理解しようとして車を停止させ目を凝らしでもしないと。しかし、そんなことをしたら事故にあってしまいそうだ。絵や図よりもことばによる情報伝達はどうしても時間がかかってしまう。かといって、複雑な情報を伝えようとしたら、絵や図では限界があるため文字情報に頼るざるえない。

ことばの線条性による制約について

ところで、文字はことばを表記したものだが、そのもとであることばには「線条性」という特徴がある。ことばは線の上に順を追って並べられたオトのつらなりからなっている。1つのあとに1つ・・・というふうに。その結果、オトのひとつひとつを順を追って確認して、単語として組み立て、さらに単語を一定の文法規則にしたがって文章にしていって、ようやく全体の意味を理解することになる。ことばは2つ同時に発することができないからである。これは道路標識などの看板に書いてある文字情報についても同じである。線条性という制約から自由になれるわけではない。ある一定の規則にしたがって文字列を読む必要があるからである。だからどうしても時間がかかるのだ。ところが図や絵は、一目瞭然だ。意味を一挙に示すから時間的制約がない。

道路上の標識については、このことから、瞬時に理解できる図や絵で示すことができるなら、文字よりも絵や図を使ったほうがいい。しかし、固有名詞など絵や記号で描けないものについては文字を使うしかあるまい。そして、文字を一つ一つ追って意味化するという作業は避けられない。案内標識が読みづらいのはそのためである。

シャイナーの論説

このことを、自動車工学者の平尾収氏はシャイナーの論説を紹介して、以下のように説明する。

ドライバーが目指す目的地への経路の情報を適切に与えるための案内標識は、情報の収集処理装置としてのドライバーの視覚能力に見合うものでなければならないから、標識の小さ過ぎる文字、多すぎる字数、弱いコントラスト、不適切な設置場所などのことがあると、案内標識としての適格性を欠くことになる。要するに、標識は読みやすく、目を引きやすい外的要因を備えているか否かによって評価される。

この読みやすさを左右する要因として、文字とその書かれている背景との明るさのコントラスト、それらの色彩、文字の書体、文字と文字との間隔、及び、文字の大きさを挙げることができる。・・・文字の大きさについての議論を紹介すると、文字を読むということは一定の時間を必要とする情報処理過程であるから、標識に書かれた文字情報が多ければ、標識が遠くにある時点から読み始めることが必要になるので、それに応じて文字を大きくしなければならないとしている。(P359)

ドライバーが視覚探索によって目線を向けて目の付けどころとする対象選択の動機には「内的要因」と「外的要因」とがある。前者は、例えば、前述の「もうそろそろ目的地への出口の標識が現れるはずだ」という予測、期待の類であり、後者は「際立った明るさ、色彩、動き、形、大きさ」などの強い外部刺激の類であって、不意に現れても思わず目を引かれる対象である。道路標識は「土地勘のない不案内のドライバー」にも確実に注目させ、その内容を読みとらせることが必要であるから、標識には充分強い「外的要因」を具備させることが求められる。

一般的にいって、標識を設置する場所が、コーストラッキング・コースセッティングに必要な視覚探索の主要な領域に近いほど、また、明るく照明されているほど、背景とのコントラストが強いほどなど、要するに「外的要因」を強化するほど、ドライバーは遠くから早い時期に注目することがわかっている。良い標識のデザインとはどういうことか?の問いに答えることは簡単ではないが、少なくとも、文字を読まなくても、色や形による冗長度の高いパターン化された情報で、その内容が容易に理解されるようなデザインが良いということができよう。例えば、万国共通の「止まれ」「STOP」の赤い逆三角形の標識を良いデザインの事例として挙げてもよいと思う。

このような情報のパターン化は、知覚及び知覚判断の項以下で解説したように、情報処理装置としてのドライバーの視覚能力に特有の知覚判断による反射的意味決定により、標識の意図する情報の瞬時の理解を可能にする。また、特殊の変形交差点や変形インターチェンジに関わる複雑な情報は、それらの重要部分を抜き出して図形で標識に示すことにより極めてわかりやすいものとなる。(P360~361)

 
では、文字を使うばあい、漢字とローマ字とでどっちがわかりやすいだろうか。漢字のほうがわかりやすいという人と、ローマ字のほうがわかりやすいという人がいる。

漢字のほうがわかりやすいというけれど

先の平尾収氏は漢字のほうに軍配をあげる。

【漢字は読みやすい】
漢字で書かれた情報は、非常に短い時間で内容が読み取れる。またかなり遠くから読み取ることができる。このことは懇親会などで、胸に付ける名札に漢字で記名されるときと、ローマ字で記名されるときのことを思い出してもらえば納得されると思う。筆者の経験では、少し離れたところでも、漢字の場合はパターンとしてほとんど瞬時に読み取れるのに対して、ローマ字の方は1字1字読みとるのにのぞき込まなければならないことが多い。道路標識の場合も日本と欧米とでは、このような差があるのでなかろうか。(P361)

 


 
jindousya

ローマ字のほうがわかりやすいという人もいる

同じ自動車工学者である林洋氏は、自著「実用 自動車事故鑑定工学」という本の(P201)で、以下の表から、ローマ字のほうに軍配をあげる。
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つまり、漢字(9画)よりもローマ字のほうが文字のわかりやすさ(視認係数=可視距離/文字の大きさ)は、2倍ということらしい。

また、同著P202で総括して、

文字信号と絵画的pictorial信号とシンボリックsymbolic信号とでは、絵画的信号が一番わかりやすく、文字信号が一番わかりにくい。意味を直感的に捉えられることが肝心で、キャッチした情報を一度翻訳しなければ意味が捉えられない信号メディアは、チラリ見でごく短時間に交通情報を認知しなければならないドライバーにとって好ましくない。

 
としている。
 


jidousyakougaku01
 

特記

林氏がとりあげた土木研究所の表で「アルファベット」ということばが使われているが、これは不適切である。「アルファベット」とは日本語の「いろは・・・」にあたるものだからである。すなわち、ABC・・・順表音文字一覧がアルファベットの意味である。文字の種類なら、やはり「アルファベット」ではなくて、ローマ字とすべきである。

けっきょくはなれの問題である

ぼくも、ローマ字よりも漢字のほうが認識するまでの反応速度が断然早いと思う。しかしそれは、ぼくが漢字をふだん見慣れているからそう感じているだけである。すなわち、漢字を使ったほうがいいのか、それともローマ字を使ったほうがいいのかは、利用者がふだん使っている文字に依存すると考えるべきだろう。だから、アプリオリに漢字のほうが優れているという考えには同意できない。

そのような思いでいたところ、つい最近読んだ梅棹忠夫氏の「日本語の将来」という本の中に興味深い一節があった。

よく、ローマ字がひじょうに読みにくいとおっしゃるかたがいますが、いきなり読んで、読めるものではありません。しばらく時間がかかります。しかし、なれてきたら、完全に漢字かなまじり文とおなじか、あるいはそれ以上にはやく読めるようになります。それはわたしがじっさいに体験したことです(P172)。

 


 
梅棹氏は著名なローマ字論者だから、あるいは割り引いて考える必要があるのかもしれないが、けっきょくは、なれの問題なのだと思う。

ところで、今回の記事を書くためにネットで調べ物をしていたら、興味深い記事を発見した。以下がそれである。

英語はローマ字で書いてないのか?

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国交省がアホなのかこの記事を書いた記者がアホなのか、もうどっちでもいいけれども、たとえばこの記事で例にあがっている「shogakko」はローマ字表記のれっきとした日本語である(・・・といいたいところだが、日本語もどきだ。長母音を無視しているからである)。他方、「elem.school」はローマ字表記の英語である。だから、この記事の表題である「ローマ字をやめて英語で統一」だとか書いてあったのにはのけぞりそうになるくらいびっくりした。

ローマ字式日本語も成立するのだ

どうもこの記事を書いた人は(この人に限らないが)、「ローマ字」を日本語をラテン文字で書いたものの意味だけで理解しているようだ。英語もローマ字で書いてあるし、英語以外にも、フランス語、スペイン語、インドネシア語、スワヒリ語、ベトナム語など、ローマ字表記の言語はいっぱいある。「syougakkou」と書けば、日本語だって、りっぱなローマ字式日本語になる。
 

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ここで注意してほしいのは、情報の正確さもさることながら、その情報(知識)そのものが中立なことです。

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知識は刀という武器と同じ

hitininnno
その昔、武士という職業が存在しました。この武士は帯刀を許された職業のことであり、刀の専門家です。殿様を頂点にして、殿様に雇用され、殿様を守るために武器である刀の技術を日夜みがいていた。

この武器である刀自体は殿様を守るためにも使えるし、農民に加勢して殿様に刃向かうためにも使えます。しかし、悲しいかな、現実は殿様を守るために使われた例が圧倒的に多く、農民に加勢するために使われた例など不幸にしてきわめて少なかった。ごく稀に後者のような武士が現れますが、こういう武士こそ庶民にとっての英雄であり、「七人の侍」はまさにそのようなタイプの武士たちでした。

利益が一致しているか相反しているかが重要

したがって、問題はその使い手自身にあります。使い手がどちらの側に立つかで知識もそれぞれの側の武器になる。そして、その使い手がどちらの側に立つかは双方の利益が一致するか相反するかでふつうは決まってきます。

この、肝心要のことを説明したサイトが皆無といっていいほどにみあたらないのは不思議なことです(というか、あえて否定しているサイトさえいくらでもみつかるくらいです)。

記事を読んでいただければたちどころにわかることですが、当事務所は「立場」を鮮明にしております。あえて鮮明にしているのは、人間や社会に対する見方は、その人自身の立場から自由にはならないからです。中立を装うことは考察を浅くし、論旨を不明確にし、自己を無責任な立場に置くことになる。「立場」のない「立場」などありようがない。当事務所の立場は、ぼく自身が社会的弱者であるため、弱者の立場に徹することです。ぼくのような弱虫は「七人の侍」のようには決してなれないけれど、せめてその心意気だけでも真似して、社会的強者に阿らないようにしたい。そういう気持ちで当サイトをたちあげました。丸山真男のことばを最後に引用しておきます。

丸山真男から

ゲーテは「行動者は常に非良心的である」といっておりますが、私たちが観照者、テオリア(見る)の立場に立つ限り、この言葉には永遠の真実があると思います。つまり完全にわかっていないものをわかったとして行動するという意味でも、また対立する立場の双方に得点と失点があるのに、決断として一方に与するという意味でも、非良心的です。にもかかわらず私たちが生きていく限りにおいて、日々無数の問題について現に決断を下しているし、また下さざるを得ない。純粋に観照者の立場、純粋にテオリアの立場に立てるものは神だけであります。その意味では神だけが完全に良心的であります。

私たちの社会というものは、私たちの無数の行動の網と申しますか、行動の組合せから成り立っております。社会がこうして私たちの行動関連から成り立つ限りにおいて、私たちは行動あるいは非行動を通じて他人に、つまり社会に責任を負っています。その意味では純粋に「見る」立場、ゲーテの言う意味での完全に良心な立場というものは、完全に無責任な立場ということになります。

したがってこの点でも神だけが、完全に無責任でありうるわけであります。認識することと決断することとの矛盾中に生きることが、私たち神でない人間の宿命であります。私たちが人間らしく生きることは、この宿命を積極的に引き受け、その結果に責任を取ることだと思います。この宿命を自覚する必要は行動関連が異常に複雑になった現代においていよいよ痛切になってきたのです。

世のなかには一方では、認識の過程の無限性に目をふさぎ、理論の仮説性を忘れる独断主義者もいれば、またそもそも認識の意味自体を頭から蔑視する肉体的行動主義者がいます。しかし他方その半面では、物事はそう簡単にはイエスかノーかきめられないのだ、もっとよく研究してからでなければなんともいえないという名目の下に、いつも決断を回避することが学者らしい態度だという考え方がかなり強い。

あるいは対立する政治的争点に対して、あれももっとも、これももっとも、逆にそれを裏返しとして、あれもいけない、これもいけないということで、結局具体的な争点に対して明瞭な方向性を打ち出すことを避ける態度をもって、良識的であるとか、不偏不党であるとか考える評論家やジャーナリストもかなりいるようであります。

たびたびゲーテの言葉を引いて恐縮ですが、ゲーテはこういうことをいっています。「自分は公正であることを約束できるけれども、不偏不党であるということは約束できない。」今申しましたような世上いわゆる良識者は対立者に対してフェアであるということを、どっちつかずということと混同しているのではないでしょうか。
「現代政治の思想と行動」丸山真男 P452-454

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