日本はいつからクルマ優先になったのか。歩車分離の起源と分離信号。

交差点での右左折車と歩行者の事故がなぜ多い

交差点における右左折車による横断歩道上の歩行者の巻き込み事故は多い。ぼく自身何件か扱ったことがある。この事故の大きな原因の一つに、車側の信号の色と横断歩道の信号の色がほぼ同調していることが挙げられる。

すなわち、車側の対面信号が青のとき、交差道路側の横断歩道上の信号も青であるため、対面信号の青を信じきった左折・右折車が歩行者と衝突する事故だ。その衝突を避けるため、歩車分離信号というのがある。

分離信号という考え方

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その歩車分離信号についてだが、ごく一部にのみ実施されているだけで、それ以外の一般の交差点は実施されないままである。されない理由は車の流れを止めるからという人命無視の思想、あるいは経済優先の思想によるものだ。そのため一般交差点は歩行者信号が青でもまったく気が抜けない。そのことを指して、人命を的にしたロシアンルーレットだとたとえた人もいる。

ぼくは自分の子供に対して、信号を信用するな、車が来ているかどうかで道路を渡りなさいとよく言っていたことを思い出す。しかし、信号を信用せず、自己判断で道路を渡るという考えはぼくの周辺ではあまり賛同者がいなかった。まるで信号無視を勧めているみたいだからだ。でも、ぼくが滞在したいくつかの諸外国では自分の判断で道路を渡ることのほうが通例だった。

分離信号の考え方について説明を加えよう。

一般道路は、同方向の人と車を青信号で一緒にながす。そのため、歩行者は、常に右左折車との交差をしいられ、運転者の注意力に身を委ねることになる。しかし、人間の注意力ほど不確実なものはない。当然の結果、人が車に見落とされ、一方的な事故が繰り返し発生している。「分離信号」とは、安全をそのような人間の注意力に頼るのではなく、歩行者横断中は車のながれを赤信号ですべて停止させる方式で、人と車を交差させない信号運用のことである」(「分離信号」という本より引用)

つまり、個々人の注意力に頼るのではなく、システムとしてクルマと人との交差を排除する。よほどこちらのほうが合理的だ。

歩車分離の起源

システムとしてのクルマと人との交差を排除するというやり方は分離信号だけに限らない。もっともふつうにあるのは車道と歩道を別々に設けてクルマと人とを物理的に分離することである。このシステムがいつからできあがったのか。日本の歴史上は江戸時代のようだ。

武部健一さんの話

武部健一さんの「道のはなし(Ⅰ)」という本の中にこういう記載がある。

交通の頻繁な街道、特に牛車による運送の盛んであった伏見・京都間と大津・京都間の道路では、早くから車道と人馬道とをはっきり区別し、歩車分離の考え方が実現していました。これは元禄8年(1695年)10月に作成された土地台帳図にその記載があることからも、元禄時代に歩車分離構造の起源があるといえるようです。

この大津街道では、車道の破損が甚だしく車牛が難儀をしている様子が忍びないと、木食正弾上人が車道普請の大願を起こし、許可を得て大改修工事を行ないました。八代将軍吉宗の時代です。日岡峠の坂道300間(約540メートル)について、元文元年(1736年)正月に工事着手し、翌々3年11月まで3年近くかけて、平均勾配20分の1に改修し、車道には花崗岩の白川石を敷き詰めました。これが日本の軌道舗装の初めといわれています。

その後、幕府も文化2年(1805年)、日岡峠蹴上~大津札の辻間、約3里(12キロメートル)の道を改修しました。その構造は、古文書によると、藤尾村(現大津市藤尾町)の部分では、道幅の南側の半分を人馬道として上・下敷の切り込み砂利を入れ、道幅北側を車道として2条の輪道とその中央の牛道に3分し、輪道には花崗岩の厚板の車石を敷き並べ、牛道は石と砂利を敷きならしました。

梅棹忠夫さんの話

「車石」についての記載が「梅棹忠夫著作集7」の中の「名神高速道路」という1文にある。その1文は、梅棹の「車石」の記憶から始まっている。

わたしは、左側の、きりたった石づみの斜面を気にしている。少年時代、このあたりで、ふるい東海道の舗装につかったという石をみた記憶があるのである。・・・石は「車石」といった。この名まえも、わたしはおぼえている。しかし、記憶というものはまったく不たしかなものだ。わたしの記憶では、そのむかし車がとおったというわだちの溝のある石が、いまの国道に平行に、1本だけはめこんであったようにおもっていたのだが、きてみると、2本ある。しかも、1メートル半ほどの幅で、石垣のうえからしたへとおっている。そのまんなかに、2メートルばかりのたかさのところに、「旧舗石・車石」とほりこんであった。

ここは、千数百年のむかしから、日本の大動脈だった。旅びとも、ウマも、車も、みんなここをとおった。そこで、永年のうちに、車のわだちのあとがこんなにすりへって、溝になってしまったのだ、というのが、少年時代のわたしの頭にやきつけられたこの石の説明であった。おとなのだれかからきいたのか、それとも自分でそんな説明をかんがえたのか、なんとなくずっとそうおもいこんでいた。しかし、もちろんそれはまちがいである。これはあきらかに、車のレースである。花崗岩のブロックに、一定の幅の溝をきざんで、レールとしてしきならべたものであ
る。日本の大動脈・東海道の交通を便利にするために、われわれの祖先が発明したみごとな道路舗装法であったのだ。・・・いずれにせよ、これが日本における軌道舗装の最初のものであることは、おそらくまちがいないであろう。・・・

2本の軌条のあいだは、ウシのあるく道だった。傾斜の急な部分には、ウシのふんばりがきくように、段がつけてあった。ウシは、えいえいと荷車をひいてこの坂をのぼってきた。ウシ追いは、北側の山ぎわをあるいた。牛車の列は、たえることもなくつづいた。ウシ追いのかけ声と、牛車のきしむ音が、1日じゅう九条山のきりたった斜面をこだましたであろう。

軌道の南側は、人馬道だった。人馬道もまた、堂々たる構造のものであったようだ。下地をならしたうえに、二層の砂利をしきこんであった。脚絆にわらじがけの旅人たちが、そのうえをゆきかった。騎馬の武士がとおった。早かごがとんだ。飛脚がはしった。そして、朝鮮や琉球からの、外交使節団の行列も、音楽をかなでながらとおっていった。(P249-251〉

 

実際の画像

「車石」がどういうものなのかこの一文を読んでもぼくにはよくわからなかったので、実際の画像がないかどうか、ネットで調べてみたら、すぐにみつかった。

 

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(こちらは、境内に復元された車石である。)

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(これは、牛車を使って車石がこのように利用されたことを示す模型である。いずれの画像も、「車石・車道研究会」HPより拝借いたしました。)

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伊勢参宮名所図会 巻1 1冊 寛政9年(1797)刊行 大津市歴史博物館蔵(古文書によると、このように牛車の通る道はすみっこに配置(画像下部分)され、人が「道」の主役だったことがわかる。)

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花洛名勝図会(からくめいしょうずえ) 巻1 1冊 元治元年(1864)  京都市歴史資料館蔵(こちらも「道」の主役は人である。これらは江戸時代のものである。いずれも大津市歴史博物館HPより)

日本はいつからクルマ優先になったのか

江戸時代はクルマよりもこのように人に優先権があった。江戸幕府はクルマ(牛車など)が人を巻き込んだらいけないので、その前に宰領という道先案内人を置いて安全を確保しながらでないとクルマの運行は禁止されていた。記録に残っているものによれば、禁止に違反すると、享保7年(1722年)に子どもに怪我をさせた車引きは流罪、雇い主は罰金刑だった。

いつから、どういう理由で主客が転倒し、人が道の隅っこに追いやられたのか。

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ここで注意してほしいのは、情報の正確さもさることながら、その情報(知識)そのものが中立なことです。

昔、東大卒が多い自民党が間違えるはずがないと豪語している自民党支持者に会ったことがあります。ぼくは苦笑するしかありませんでした。たしかに東大卒は勉強をいっぱいしているわけだから、その知識量も多くかつ正確だといえるかもしれません。ただ、知識それ自体はあくまで中立なものであり、どちらにも役に立つ武器なのです。したがって、その正確でたくさんの知識をどちらの側に使うかにある。わかりやすいたとえ話をしてみましょう。

知識は刀という武器と同じ

hitininnno
その昔、武士という職業が存在しました。この武士は帯刀を許された職業のことであり、刀の専門家です。殿様を頂点にして、殿様に雇用され、殿様を守るために武器である刀の技術を日夜みがいていた。

この武器である刀自体は殿様を守るためにも使えるし、農民に加勢して殿様に刃向かうためにも使えます。しかし、悲しいかな、現実は殿様を守るために使われた例が圧倒的に多く、農民に加勢するために使われた例など不幸にしてきわめて少なかった。ごく稀に後者のような武士が現れますが、こういう武士こそ庶民にとっての英雄であり、「七人の侍」はまさにそのようなタイプの武士たちでした。

利益が一致しているか相反しているかが重要

したがって、問題はその使い手自身にあります。使い手がどちらの側に立つかで知識もそれぞれの側の武器になる。そして、その使い手がどちらの側に立つかは双方の利益が一致するか相反するかでふつうは決まってきます。

この、肝心要のことを説明したサイトが皆無といっていいほどにみあたらないのは不思議なことです(というか、あえて否定しているサイトさえいくらでもみつかるくらいです)。

記事を読んでいただければたちどころにわかることですが、当事務所は「立場」を鮮明にしております。あえて鮮明にしているのは、人間や社会に対する見方は、その人自身の立場から自由にはならないからです。中立を装うことは考察を浅くし、論旨を不明確にする。「立場」のない「立場」などありようがない。当事務所の立場は、ぼく自身が社会的弱者であるため、弱者の立場に徹することです。ぼくのような弱虫は「七人の侍」のようには決してなれないけれど、せめてその心意気だけでも真似して、社会的強者に阿らないようにしたい。そういう気持ちで当サイトをたちあげました。よろしくです。

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