「人間のための街路」、そして「人間のための都市」

【「人間のための街路」の表紙にある絵。ミラノのガレリアの光景を描いたソール・スタインバークの作品】出典citydidactics

「人間のための街路」再読

今日の記事を書くために再読した本がある。「人間のための街路」(B・ルドフスキー著)という本である。日本語訳があまり上手とはいいがたいため、1度目は、途中で挫折した。だから、今回が2度目の挑戦だった。訳の意味がわからないのは2度読んでももちろん同じで、だから途中から飛ばし読みしてしまったところもあったけれど、どうにか最後まで読み通すことができた。

せっかくの名著なのに、もう少しましな訳ができないのかよと文句の1つも言いたくなる。原書の購入も考えたが、アマゾンで調べると値段が3万円近くもするし、仮に原書を購入しても、ぼくの英語読解力ではいつになったら読破できるかまったくわかったものではない。高校生のときにかなり力をいれて英語の勉強をしたつもりなのに、実際の英文に接してみて自分の実力ではまったく歯が立たないことにためいきをついたことが過去に何度もあった。でも英語くらいはできないと、何かと不便であるだけでなく、生き方を狭くする。今回のような翻訳本を読んでいる時にそのことを痛切に感じるし、日本のマスコミの報道だけに頼っているとあらぬ方向に誘導されるのではないかという危機感もあるので、日本で報道されたのと同じことが外国でどのように報道されているのを知るためにも英語読解力は必須だろう。


 
それはともかく、この本の表表紙に書いてある書評が、この本のもっとも言いたいことを簡潔にまとめていたので、ご紹介することから始めることにしよう。

日本の道路環境は悲惨である

本書は、今日崩壊の危機に瀕するアメリカの諸都市にあって、その現状を憂い、行く末を案ずる人びとのために、街路と人間を主題として書かれた初めての本である。しかしこのテーマは、この四半世紀の間、国民生活のあらゆる局面においてアメリカ化の道を歩むことによって、今日の成長と繁栄を見るに至った日本の諸都市にも、そのまま当てはまるであろう。

それどころか、現代都市の生命を脅かしている最大の原因が、まさに自動車による街路の専有とその専横ぶりにあるとするならば、幾多の疑問と批判にもかかわらず、自動車交通への傾倒と自動車文明への崇拝ぶりにかけては、今日むしろ本家を上回るかの感すらある日本人にとって、これはより切実なテーマでもあろう。

しかしながら、こうした都市の住民たちは、自分たちの環境が申し分のないものであるとは思わないにしても、それがまったく悲惨なものであることに気づいていない。なぜなら、人びとはもっと文明的な、そしてもっと人間的な都市や街路の存在を知らないからである。人びとのそうした固定的でしかも曖昧な考え方を転換させるために、著者は読者に、西欧文明を覗くためのバックミラーであるイタリアをはじめ、ヨーロッパ、アジア、アフリカに及び10余の国々の街路と、そしてそこに営まれている豊かに人間的な生活とを紹介している。本書によって、読者は今まで思いもよらぬ楽しみを騙し取られていたことに気づくであろう。

街路とは、そして都市とは、ほんらい砂漠ではなくむしろオアシスとなるはずのものなのだ。したがって本書はまた、いわば都市の安楽死をもって自らの仕事をしているかのごとき、建築家やプランナーに対する痛烈な批判の書でもある。

コンビニ弁当に満足できない方のために・・・

お粗末な食事ばかりしていると、それがいずれ当たり前のように思えてくる。中には、粗食がご馳走だとさえ思えてきて、コンビニの弁当を、うまい・うまいとパクつき、感嘆し、よせばいいのに他人にまで勧める。なにがおいしい食事なのかはいわば個人の趣味の問題かもしれないが、他人に勧めようとするのだったら、いろいろ食べ歩くこと、すなわち、最低限、比較が必要である。世界を見渡してみて、どこにどういうおいしい食事があるのかをまずは知ることから始めなければならない。そうでないと、食事に対する「鑑識眼」は育たない。

道路についても同じことがいえて、そのために、著者であるB・ルドフスキーは、「西欧文明を覗くためのバックミラーであるイタリアをはじめ、ヨーロッパ、アジア、アフリカに及び10余の国々の街路と、そしてそこに営まれている豊かに人間的な生活とを紹介している。」

だからぼくは若い人によく言うのだ。海外の一人旅を始めろって。井の中の蛙では困るのだ。一人旅がおっかなくてできないなら、せめてこの手の本を読むことで、目からうろこを落としてみたらどうだろうか。無知のため、自分がいかに固定観念に囚われて、事実が見えていなかったのかを思い知るはずだ。

この本の日本語訳はお世辞にもいいとはいえないけれど、著書であるB・ルドフスキーの本は、この本にかぎらず絵や写真が多く、絵本を見ているかのような楽しさがある。百聞は一見に如かず。ここでは、著者がヨーロッパだけでなくアジアやアフリカなど世界中を回って見つけてきた「もっと文明的な、もっと人間的な都市や街路の存在」をその絵や写真で確認してみたい。

もっと文明的な、もっと人間的な都市や街路の存在

walking
「街路は散歩する以上に人生を良く理解できる方法はない」と、ヨーロッパに帰化したヘンリ・ジェイムズは主張している。人生を楽しむために、イタリア人は毎日の儀式としてぶらぶら歩きをする。アメリカ人が酒を飲み始める時刻になると散歩に出かけ、その途中で友人の家へ寄ったりする。そぞろ歩きに適した場所を提供するために、町の主要な通りから乳母車以外のすべての車が締め出される。この写真は、ペールジャのコルソ・ヴァヌッチで、背景は寺院の未完成のファサードである。(P103)
 
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ボローニャに最近建てられた大学の建物はポルティコを備えているが、これは、700年前に、ボローニャ市民が移動大学のための廊下として町中にポルティコを建設して以来の伝統に従ったものである。(P77)
 
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ラグネの【ノートルダム橋とシャンジュ橋の間の船上槍試合】という絵は、かつてパリの橋の上に建っていた家々を想像させる。(P180)
 
rudoruhusuki
ペルージアのヴィア・デル・アケドットは、13世紀の水道橋が歩行路に転用されたものである。(P187)
 
hanging-city
このスケッチは、パリを本拠に活躍する建築家ヨナ・フリードマンの空間都市の概念を示している。都市住民の歩行の権利を維持するために、彼は、都市をいわばブーツの皮紐のようなロープのネットで浮き上がらせている。地上は自動車のために残されている。(P194)
 
【以上の画像の出典:CMU Architecture 2013
 
na047
大阪のある街路に張られた可動性のキャンパスの日除けは、夏の強い日射しを和らげている。まるで大広間に飾られた戦勝旗のように装飾的な商店の幟がずらりと並び、商店街の賑わいを増している。われわれの国のショップ・サインと異なり、建物と直角に掲げられているので、遠くからでも読み取ることができる。(P216)

画像の出典:都市の自由空間008
 
nomiya
日本の街路に並ぶこうした小さな飲食店以上に工夫の凝らされた戸外での食事のための施設はない。大阪で見たこの店の木のカウンターは、料理の入っている小さな器ともほとんど変わらぬくらいの幅しかないが、御馳走は十分に楽しめる。しかもお客はある程度のプライバシー、すくなくとも上半身のプライバシーは保てるのだ。短いカーテン(のれん)はこの国における日除けの変種である。(P308)
 
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迷路の町というのは、何マイルも1直線に伸びる街路で生活していてもその想像力の枯渇していない人びとには、不思議な魅力を感じさせるものだ。その最良の状態に保たれている迷路のひとつがアプリア地方の町マルティーナ・フランカである。160もの袋小路に分岐した、狭く曲がりくねった街路は、単一建築物の廊下に類似している。(P233)

迷路は、完全に人が手を加えた人為的な計画空間である。それに対して、砂漠は、人の手が加わっていないか、加わっていても制御不可能な無秩序の空間だ。無秩序の空間はスラム街もその例だが、そこでは人間は住めない。いや、住むに値しない。
 
【すべての画像は「人間のための街路」に所収】
 
ネットの便利なところは、たとえば現代のマルティーナ・フランカの風景をすぐにもみつけることができることである。いかにマルティーナ・フランカが「人間のための街路」で形作られているのかを確認することができる。メルクマールは、ひとつは大部分の市街地や生活路にクルマの侵入が基本的に許されていないことである。もうひとつが、歩くことで生活の用が足せることである。その視点で眺めてほしい。

たとえば、現在のマルティーナ・フランカ。→「南イタリア旅行2013(12) マルティーナ・フランカの旧市街」。100年どころか、もっと昔のままの景観をとどめている。

他方、ぼくの住む日本は、たとえばぼくの自宅前の道路にしてもそうだが、クルマと歩行者の共存を強いられている。つまり、歩道がない(少ない)のだ。そんなところを通学路に指定し、いつ事故が発生してもおかしくないのが現状である。だから、子供を持つ親は口癖のように言うのだ。道路で遊んではいけませんよと。子供を持つ親なら、日本の道路がいかに危ないのかをよく知っている。

クルマを使わないと用が足せないのは、砂漠化した都市である

都市は「人」も「物」も自由に動く空間である。そこでは「移動」が基本で、移動の最中にたたずんでお茶を飲みながら立ち話をしたり、子供なら遊んだり、移動空間ではときに演劇がやられ、音楽が奏でられる。

「クルマ社会」「クルマ都市」にあっては、クルマの通行に邪魔になるそれらは徹底的に排除され、「移動」だけがのこり、その移動の中心は、もちろん、クルマだ。そう考えれば、クルマのハケをよくすること、そのための道路を拡大、新設することは必然になる。それに対し「人間の社会」「人間の都市」にあっては、「移動」の中心は、何よりもまず、「歩く」ことだ。歩いて用が足せる。また、安心して歩ける。この2つが都市の肝心要のことである。道路は、まず、そのためにある。クルマのためにあるのではない。

古来、都市は、まず歩いて用が足せる、安心して歩ける場所として形作られてきた。ぼくが訪れたことがある西安にしてもフィレンツェにしてもダマスカスにしてもそうだ。「人間のための街路」にはそういう例がこれでもかというくらい紹介されている。クルマを使わないと用が足せない都市は、ぼくのいうところの「都市」ではない。たかだか都市の砂漠である。それにすぎない。

「人間のための都市」の基本は歩けること、歩いて用が足せることにある。その延長に自転車があり、路面電車がある。

ぼくは都市を「歩く」「歩ける」ことを基本にして考えることにしている。もちろん、「歩く」だけではこと足りない。「歩く」ことの次に考えるべきは、自転車による移動だ。自転車で用が足せることである。安心して自転車に乗れる都市――― これは、今、オランダなどのヨーロッパの「先進都市」がもくろみ、実現しつつあることだ。現代のオランダなど先進国の道路政策については、最後にご紹介するサイトが詳しい。
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【「perfect comes from perfect」サイトからお借りした。車道と歩道の間に自転車道を設けているが、さらに、車道と自転車道の間の緩衝帯にクルマの駐車スペースを確保している。これだと日本の都市部に最近見られるようになった、路面のペンキで色塗りしただけの自転車レーンが駐車場代わりに使われるような現象が起こりえようがない。】

もう少し長い距離の移動なら、その主役は路面電車である。
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(故郷・金沢にかつてあった路面電車)

路面電車の復活、新設は、今、これもまたヨーロッパの「先進都市」で大規模に行われてきていることである。ここでいう路面電車は時代遅れの市電などのことではない。最新技術を駆使した、すぐに動き、すぐに止まることができる、安全かつ快適な路面電車のことである。

片野優著「ここが違う、ヨーロッパの交通政策」には、ヨーロッパの路面電車事情が紹介されている。たとえばストラスブールについて書いてあったので引用しよう。
romenndennsya 出典:naverまとめより

ストラスブールの路面電車(LRT)は、最新式の車両で、出入り口は1・5メートルと広く、低床式で高齢者が障害者にやさしいつくりになっている。しかも、トラムは早朝4時半から夜中の12時半まで運転しており、運転間隔は平日の普通の時間であれば5~6分、土曜日は7~8分、日曜・祝日や早朝と深夜は15分程度だ。・・・その中でもっとも興味深いのは、「パーク&リレーチケット」だ。これは郊外から車でやってくる市民が、路面電車の始発駅の近くにある市内8ヵ所の駐車場に車をとめて、そこから路面電車に乗りかえるパーク&ライド用のために作られたものである。(P85-86)

 

クルマをどうするか

では、クルマはどうするかである。原則としてクルマは都市の外につくられた駐車場にとめておくことにしたらいい。都市内への進入は原則禁止する。そして都市内部の移動は、歩くか、自転車に乗るか、路面電車に乗るかにする。もちろん、そこに地下鉄なりJRなりの鉄道や、バス・タクシーが加わる。地下鉄については条件をつけて、すでに地下鉄があるのだったら使えばいいが、新設までする必要はまったくない。お金がかかるからである。そんなものをつくるよりも、最新技術の路面電車システムの整備のほうが安上がりだし、効率的だ。とにかく基本は、「歩く・自転車・路面電車」だ。この3つを中心に見据え、移動を考える。

原則としてクルマが入れないことにすれば、道路の拡大・新設を最小限必要なものに限ることが可能になる。高速道路が都市を貫通するなどという、ぶざまでふざけたことは不要になる。東京オリンピックがらみで東京の高速道路拡充が云々されているみたいだが、アホかと言いたい。ニューヨークだってロンドンだってパリだってほかにもいくつでもあげることができるが、要するに「先進都市」のど真ん中に高速道路をぶちぬいている例があるだろうか。都市の外に駐車場をつくってクルマを中に入れさせないことは、ベネツィアでもコペンハーゲンでもやっていることだ。ベネツィアでの移動は水路と「歩く」ことである。コペンハーゲンでの移動は自転車と「歩く」ことである。
 

ロンドンは辞退しようとしているのだけれど・・・

orinpikku
【ロンドンにできて、東京にはできないのだろうか。道路の拡充をふくめ、そこに「人間のため」の発想があるとは思えない。】

ぼくが考える「人間のための都市」

ぼくが考える「人間のための都市」は、「人間のための街路」を中心に見据えた、基本は「歩く・自転車・路面電車」だ。そして、その道路を主役にして、人は立ち話に興じ、子供は道で遊び、そこでは演劇・音楽が演じられる。政治について不満があれば路上で即席の討論会が行われる。「人間のための都市」には不可欠だ。そこでめいめいが自由に意見を出しあう。デモだってふつうにやってよろしい。クルマのハケが悪くなるからデモを規制するなんていうのは本末転倒な話である。それが「人間のための都市」、それらの諸都市が集まって形作られる、自由で民主主義な国には必要なことだと、ぼくは思う。

路上で演じられる大演奏会

海外先進都市の道路事情がわかるサイト紹介

最後に、海外の先進都市の道路事情や交通規制などの紹介を自転車を中心にされている尊敬すべきサイトをふたつ紹介したい。
perfect comes from perfect
サイクルプラス「あしたのプラットホーム」

ふたつのサイトとも、弊サイトですでにブックマークしてある。

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突然、交通事故にあわれた被害者は、怪我をされたり、車を破損などされたりして大変なことです。その損害の賠償をしてもらうために、これから、加害者そして加害者側の損保担当者を相手に示談交渉を進めなければならなくなります。しかし、交通事故は人生でそう何度も経験するわけではありません。なにをどのようにしたらいいのか途方に暮れてしまうのがふつうです。

ところが、事故被害者がまず相手にするのが加害者であり、そして、実際は加害者側損保の担当者です。損保の担当者はそのことで生計を立てているいわばプロであり、百戦錬磨で鍛えた知識と経験があります。かたや、知識も経験もほとんどない事故被害者。そんな素人がプロ相手にどのように交渉していったらいいのでしょうか。

交通事故に詳しい弁護士が知人にいるような幸運な方は別にして、たいていの方は途方に暮れてしまうことでしょう。一昔前は、素人とプロの交渉ごとということにふつうはなって、プロの思い描くストーリーどおりに押し切られるのがふつうでした。しかし、ネットが発達した現在、示談交渉を進める上での情報がネットを検索すればあふれかえっています。が、その情報は正しいものもあれば正しくないものもある。玉石混淆です。それらの情報に接した事故被害者にとって、どの情報が正しくて信頼できるのかがまずわかりづらいし、自分だけでは手に負えなくて、調査や交渉ごとをだれかに任せることも時に必要になってきます。が、ネット上には、われこそは事故被害者のためだと謳っているものばかりなので、実際にいったいだれを信頼したらいいのかわかりません。

知識とは中立なものであること

ここで注意してほしいのは、情報の正確さもさることながら、その情報(知識)そのものが中立なことです。

昔、東大卒が多い自民党が間違えるはずがないと豪語している自民党支持者に会ったことがあります。ぼくは苦笑するしかありませんでした。たしかに東大卒は勉強をいっぱいしているわけだから、その知識量も多くかつ正確だといえるかもしれません。ただ、知識それ自体はあくまで中立なものであり、どちらにも役に立つ武器なのです。したがって、その正確でたくさんの知識をどちらの側に使うかにある。わかりやすいたとえ話をしてみましょう。

知識は刀という武器と同じ

hitininnno
その昔、武士という職業が存在しました。この武士は帯刀を許された職業のことであり、刀の専門家です。殿様を頂点にして、殿様に雇用され、殿様を守るために武器である刀の技術を日夜みがいていた。

この武器である刀自体は殿様を守るためにも使えるし、農民に加勢して殿様に刃向かうためにも使えます。しかし、悲しいかな、現実は殿様を守るために使われた例が圧倒的に多く、農民に加勢するために使われた例など不幸にしてきわめて少なかった。ごく稀に後者のような武士が現れますが、こういう武士こそ庶民にとっての英雄であり、「七人の侍」はまさにそのようなタイプの武士たちでした。

利益が一致しているか相反しているかが重要

したがって、問題はその使い手自身にあります。使い手がどちらの側に立つかで知識もそれぞれの側の武器になる。そして、その使い手がどちらの側に立つかは双方の利益が一致するか相反するかでふつうは決まってきます。

この、肝心要のことを説明したサイトが皆無といっていいほどにみあたらないのは不思議なことです(というか、あえて否定しているサイトさえいくらでもみつかるくらいです)。

記事を読んでいただければたちどころにわかることですが、当事務所は「立場」を鮮明にしております。あえて鮮明にしているのは、人間や社会に対する見方は、その人自身の立場から自由にはならないからです。中立を装うことは考察を浅くし、論旨を不明確にする。「立場」のない「立場」などありようがない。当事務所の立場は、ぼく自身が社会的弱者であるため、弱者の立場に徹することです。ぼくのような弱虫は「七人の侍」のようには決してなれないけれど、せめてその心意気だけでも真似して、社会的強者に阿らないようにしたい。そういう気持ちで当サイトをたちあげました。よろしくです。

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