天才・矢野顕子と民族音楽学者・小泉文夫

私はこれまで西洋のロックばかり紹介してきたが、日本の音楽が嫌いというわけでは決してない。日本の音楽界で一番好きなミュージシャンといえば、迷うことなく天才・矢野顕子である。彼女のアルバムはたくさん聴いたが、その中で一番いいのをどれか1つ選べと言われれば、迷うことなく彼女のデビューアルバムである「Japanese Girl」を押す。

私が最初に矢野を知ったのは、このアルバムに収録されている「丘を越えて」を聴いたときだ。これは藤山一郎の名曲をカバーしたものなのだが、母がこの曲が好きだったため、オリジナルのほうの藤山の「丘を越えて」を私は前から知っていた。口ずさむこともできた。どういう曲なのかはアップしたので聴いてほしい。矢野のほうが自由でくったくがなくカジュアルなら、藤山のほうが正装で、威儀を正して歌わないと怒られそうな気持ちになってくるはずだ。いい曲だけれど、こんな古臭い曲を矢野がカバーしていると知って私はそれだけでひどく驚いた。そして、実際に矢野の歌う「丘を越えて」を聴いて、オリジナルをはるかに超えていることにもっと驚いた。

どういっていいのか表現が難しいが、現代的にアレンジされていたのはもちろんのことだけれども、ただそれだけのことならふつうによくあるカバーだ。矢野のすごいところは、その斬新さ、躍動感、自由さだ。私がイメージしていた「丘を越えて」に対する固定観念を徹底的に破壊しておきながら、それでいてオリジナルが持つ明るさを失っていないことだ。

その後、夭逝してしまった民族音楽学者の小泉文夫の著作を読んでいたら、小泉も矢野の大ファンだった。私が矢野に抱いた思いを、小泉は、日本音楽が西洋音楽の受け売りによりいびつになってしまったことからの日本音楽への回帰という視点で矢野を言及・評価している。なるほどそういうことだったのかと、私は小泉の指摘に妙に納得させられうれしくなった。その箇所を引用する。

五木(寛之)

テレビの番組の中に、新人コンテストとか素人のど自慢というのがありますね。新人が出て来てなにか歌うと、審査員の中に、まあ音楽教育に縁のある人たちがいて、ふたことめには「基礎ができてないから、基礎からしっかりやりなさい。歌は口先で歌うもんじゃありません。まず腹式呼吸から始めなさい」というようなことをいう。僕は、あれはやはり審査員の人たちの頭の中に、昔の上野音楽学校の発声というようなものが抜きがたく根を生やしてるんだと思うんです。

小泉

そう、あの教育ですね。

五木

僕は淡谷のり子さんという人は、人間的には大好きですけれどもね、あの方もやっぱりふたことめには、「そんな口先で歌っちゃいけない。そんな汚い声出しちゃいけない」というふうに新人の歌手たちにいう。あれはまあ、あの人個人の意見としてはいいけれども、ジャーナリズムがそういう年輩の人たちの歌に対する意見を、いまのヤングというか、そういう連中に援用するのは、かならずしも当たらないという感じがしているんですが。

たまたま小泉さんの本を拝見していて、「さわり」という、楽器を弾くときに一種のノイズのような音が出るわけですけど、あれは実は単なるノイズではなくて、一つのサウンドの魅力になっているんだという文章がありました。ロカビリーなんて「さわり」で聞かせているし、個人では森新一なんていう人のだみ声ですね。あれはおそらく昔では考えられないことだと思う。本人が出そうと思ってああいう声を出しているわけじゃないんで、声帯のどこかがふくれて、いわば「さわり」現象みたいなものを起こしてるんじゃないかという気がするんですが。

小泉

喋っている声もそうですね、森君は。

五木

僕はレコード会社で童謡をつくっていた時期があるんですけれども、やっぱり声の中から「さわり」みたいなものをできるだけ排除していく天使のような声がいいとされるわけです。いいとか悪いとかいう前に、魅力があるかないかという問題が大切なんじゃないかと、昔から考え続けてきたんですけれども・・・。そういうことをいっても門外漢の暴論みたいな形で受けとめられてきて、こんなことをいうのはまずいんじゃないかなという気持ちでいたんですね、僕は。それが最近、いっせいにこれまでの日本の音楽観とか歌に対する考え方について、まるでつむじ風みたいに新しい動きが出てきているような気がするんですよ。その先頭に立っていらっしゃるのが、小泉さんだと思う。この間もテレビで、矢野顕子さんの口から小泉さんの名前がひょいと出たりしてね。

小泉

あの人の歌い方は、なんか私のやりたいことをやっているような感じで・・・。私自身では歌えないし、歌ってもあの人のようにはきれいにはできないから。彼女の歌い方は、本当になんといったらいいのか、もう、かゆいところに手が届くという感じだったですね。

五木

なるほど。

小泉

さっきの話ですけれどもね、明治以来の西洋音楽の影響を受けて、非常に硬直した日本語の使い方をしているわけですよ。もともと日本語にはそういう要素が多少はあるんですね。なんというか、ただの豆粒をならべてみたような、そういう要素がある。それが小学唱歌になるといっそう強調されている。だから、ますます日本語がつまんなくなっちゃう。ところが義太夫とか新内とかいうものになると、こんどは反対に、喋るときには硬直している日本語が、実は生き生きとしてくる。矢野さんの歌は、ピアノ伴奏でやっているにもかかわらず、そういう日本語になっているのですね。

五木

ふーん。

小泉

もうつかまえられないような、ピチピチ跳ねて、非常にやんちゃな日本語がよみがえっているという感じですね。「ああ、本当に、こんな歌なら自分で歌ってみたい」、そういうイメージぴったりで、非常にうれしかったです、はじめてレコード聴いたときに。

五木

それに、なんというか、ジャングルから出て来た自然児みたいに歌って跳ねているだけというのじゃなくて、彼女はよく勉強していますね。「ポエム」という雑誌で谷川俊太郎さんと対談しているのを読んだんですけれども、学問の世界で問題になっている言語学とか構造主義とかね。そういうものの本質みたいなものを、肉体でうまくつかんでいるという感じがしました。これからの音楽とか絵画とかにしても、なにがしかの批判精神みたいなものは、それが論理的になっていなくても、持ってなきゃいけないのじゃないかという感じがしているわけです。

小泉

そうですね。理論的じゃなくても、本物を追求していると、肌でわかるんじゃないですかね。本能的にわかるんですね、パッと。

(「音のなかの文化」P183~186)

矢野のデビューアルバムである「Japanese Girl」は、題名からもわかるように、矢野が世界を意識して作ったアルバムである。西洋中心のポピュラー音楽界に対して、日本の音楽だってこんなに素敵なのよという彼女のメッセージが題名にこめられている。全曲私は好きだが、とりわけいいのが 10曲目「ふなまち唄PartI」である。青森ねぶたリズムから発想を得て作られたらしくて、日本の伝統音楽の普遍性が感じられて、グイグイその独特の世界に引き込まれる。日本の伝統音楽とは何かについては私のような無教養な人間にはさっぱりわからないが、理屈はわからなくても直感で理解することはできる。こちらもぜひ聴いていただきたい。すごいね。やっぱり天才・顕子さんだ。

なお、日本伝統音楽の音階と旋法の詳細については、小泉の別著である「民族音楽研究ノート」(P149~)が詳しい。

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