交通事故直後の謝罪と示談の効力

交通事故直後の謝罪については賛成論・反対論が拮抗する

他人のブログをみていて、それに触発されて記事を書くことがぼくの場合よくある。交通事故を起こした後の謝罪についてあるブログでとりあげていたのだが、ぼくには納得できないところがあった。それで、ぼくの思うところを書いてみたいと思った。

交通事故直後の謝罪についてはyahooの知恵袋でもときどき質問があって、「謝罪をしても不利になることはない」という回答があるかと思えば、「決して謝罪してはならない」という回答があり、お互い拮抗して譲らない。ぼくはこの種の質問をみるたびにある著書の一節を思い出す。

過失に対する各民族の反応

ぼくは若いときに海外の一人歩きをしていた。そのときに、リックにつめるのは着替えなどの身の回りの必需品など最小限の持ち物にとどめていた。ただし例外があって、ヒマなときに読書をするため本多勝一の「極限の民族」をリックの底にしのばせていた。ぼくはこの本が大好きで、ヒマがあるとは見返していたし、本多の文章にあこがれていたので、心を落ち着かせたいと思ったときに、旅先で本多の文章の模写をしていた。 その中の一節にこうある。

リヤド市のホテルで、私の部屋は314号室だった。あるとき、受付で自分の番号をいってカギをもらい、部屋の前まで行ったとき、カギが別室のものであることがわかった。受付にもどってカギの番号を見せながら、私は「部屋にはいれませんでしたよ」と、相手を責めないための心づかいで、微笑しながらいった。全く予期しなかった答えが返ってきた――「あなたが間違った番号をいったのです」。

私が予期していたのは、軽くアタマをかいて「や、これは失礼しました」という一言なのだ。この予期は、まあほとんどの国で当たる。だが、ここでは、またしても私は唖然とさせられた。このとき、もし私が初めてアラビア人と接したのだったら「あるいは自分が違った番号をいった可能性も考えられる」と思っただろう。しかしいまでは「正にベットウィン的」と思っただけであった。

自分の失敗を認めること、それは無条件降伏を意味する。そんなことをしたら「人間はすべて信用できない」(Q氏)のだから、なにをされようと文句はいえない。・・・100円のサラを割って、もし過失を認めたら、相手がベットウィンなら弁償金を1000円要求するかもしれない。だからサラを割ったアラブはいう――「このサラは今日割れる運命にあった。おれの意思と関係ない」。

さて、逆の場合を考えてみよう。サラを割った日本人なら、直ちにいうに違いない――「まことにすみません」。ていねいな人は、さらに「私の責任です」などと追加するだろう。それが美徳なのだ。しかし、この美徳は、世界に通用する美徳ではない。まずアラビア人は正反対。インドもアラビアに近いだろう。フランスだと「イタリアのサラならもっと丈夫だ」というようなことをいうだろう。

私自身の体験ではせますぎるので、多くの知人・友人または本から、このような「過失に対する反応」の例を採集した結果、どうも大変なことになった。世界の主な国で、サラを割って直ちにあやまる習性があるところは、まことに少ない。「私の責任です」などとまでいってしまうお人好しは、まずほとんどない。日本とアラビアとは正反対の両極とすると、ヨーロッパ諸国は真ん中よりもずっとアラビア寄りである。隣の中国でさえ、サラを割ってすぐにあやまる例なんぞ絶無に近い。ただしヨーロッパでは、自分が弁償するほどの事件にはなりそうもないささいなこと(体にさわった、ゲップをした、など)である限り「すいません」を日本人よりも軽くいう。

・・・ だが、日本人と確実に近い例を私は知っている。それは、モニ族(ニューギニア)とエスキモーである。モニ族は、私のノートをあやまって破損したときでも、カメラのレンズに土をつけたときでも、直ちに「アマカネ」(すいません)といって恐縮した。こうした実例を並べてみると、大ざっぱにいって、次にような原則のあることがわかる――「異民族の侵略を受けた経験が多い国ほど、自分の過失を認めない。日本人やエスキモーやモニ族は、異民族との接触による悲惨な体験の少ない、たいへんお人好しの、珍しい民族である」。

基本的な「ものの見方について」考えると、ベドウィンの特徴、ひいてはアラブの特徴は、日本の特殊性よりもずっと普遍的なのだ。私たちの民族的性格は、アラビアやヨーロッパや中国よりも、ニューギニアにより近いとさえ思われる。探検歴の最も豊富な日本人の1人、中尾佐助教授に、帰国してからこの話をすると、教授は言った――「日本こそ、世界の最後の秘境かもしれないね」。

私たちが帰国してまもなく見た朝日新聞に「もう泣き寝入りすまい」という投書が載っていた(1965年9月18日朝刊「声」欄)。交通事故で、自分が悪くないのにあやまったりしては大損だという体験談である。アラビア人があれを読んだら、そのあまりにも日本的現象に驚いて唖然とするだろう。かれらなら、たとえ100パーセント自分が悪い場合でも、いうことは常に決まっている――「100パーセントお前の責任だ!」。(P411~412)

極論かもしれないが、極論ゆえに本質をあぶりだすこともある

本多勝一の「極限の民族」3部作は、本になる前に朝日新聞で報道され大反響だった。本多のいわゆる出世作にあたる。一般読者だけでなく、当の文化人類学者からもおおむね好評を博し、梅棹忠夫・石田英一郎(注)・祖父江孝男・中尾佐助・泉靖一・岩田慶治・米山俊直・石毛直道など学界のそうそうたる文化人類学者たちも好意的な論評をしている。
 

(注)

たとえば石田英一郎は下記の本で、ぼくが本多勝一から引用したところとまったく同じところを引用されて、交通事故をテーマに日本人の特殊性として石田氏が言及されている。

私がこの記事を最初にひいたのは、私自身の生活体験からいって、これらはだいたいあたっていると思うからです。アメリカで車を運転していた日本人が、どっちの過失ともいえない状態でほかの車とぶつかったときに、うっかり、”Excuse me”といいました。その一言のために、彼は自分の過失を認めたという証拠にされて、裁判で負け、賠償金を取られる理由になったことがあります。

ところでまた、西洋のべつの国で、こんどは直接体験した日本人からきいた話があります。自分の車が、ある女性の運転する車に追突された。これは明らかにむこうの過失だったそうですが、その婦人がまず最初にいったことばは、「これは私の過失ではありません」。―― 自分が悪いのではないということばが何よりも先に出る、その神経に日本人はムッとしたというのです。

日本でも最近のマイカー族の若者の生活感覚は、だいぶ昔とは変わっていることと思います。しかし、明らかに自分のあやまりで車をぶつけたようなときに、相手にむかってとっさに「おれが悪いんじゃない」と言いきれる日本人がどれだけいるでしょうか。

私はベドウィンとは接触した経験はありませんが、中国やヨーロッパ、またはアメリカで暮した経験があります。私の体験からいうと、西洋的な文化のパターンのほうが、たしかに日本文化のタイプよりも、一般的、普遍的なようです。そうしなければ負けになるというときは、あくまでも自己の主張をつらぬくのが当然とされているわけです。

もちろん西欧文化というものは、ベドウィンなどよりはずっと洗練されたものであり、日本人とくらべても、ある一面ではずっとリファインされているところがあります。人の話をしているときにちょっとセキをしても、必ず”Excuse me”と反射的にいいます。そして、特殊な利害関係の衝突がないかぎり、もちろん他人に対して非常な親切を示しますし、個人と個人との深い友情は一生変わりません。

人間同士のことですから、そう何からなにまで異質などということはありません。しかし、日常の市井の生活では、自分の失敗を認めたら、こんどは何をされても文句がいえなくなるという、非常にきびしい人間関係を感じるのです。

ヨーロッパ人との取引きで食うか食われるかのかけ引きになると、相手のしぶとさ、しつこさ、そのタフな神経に、日本人の商社マンは太刀打ちできず、まったく打ち負かされてしまうそうです。そして、彼らの顔は緊張にゆがみ、態度は卑屈に見えるほどおどおどするか、あるいは逆に、必要以上に肩をそびやかすようになるそうです。これはほんの一例ですが、われわれ日本人を、このような他との対比において考えたいと思っています。つまり、日本文化の特質、日本人の国民性を、他国の文化、他国人の国民性との比較という角度から考えてみたいのです。(P24~26)

 

 
しかし、ぼくの知るかぎり一部に例外があって、たとえば川田順造は彼の「マグレブ紀行」(P118)で本多を「駆け足で誇大な記事をこしらえる探検ジャーナリスト」と揶揄していた。また、ロビン・ギルは「英語はこんなにニッポン語」という著書で、本多の言説を「毒想」(P39)だと批判している。


 
川田やロビン・ギルが言うように、本多に代表される日本文化論によくみられる2項対立の世界観、すなわち、中根千枝の「対立の文化」対「連続の文化」、会田雄次の「合理主義」対「忖度主義」、他にも針葉樹林文化対何とか文化とか、肉食文化対何とか文化など、そんなのでかんたんに割り切るのは極端すぎるよとぼくも思う。しかし、極論だからこそ、本質があぶりだされるということはありえるだろう。本多の、日本人の「過失に対する反応」のお人好しっぷりの例についても、そういう傾向があることは事実だと思う。

交通事故直後の謝罪再考

そこで、このことを交通事故を例にしてあらためて考えてみたい。交通事故で被害にあった者はあきらかに猛烈に怒っている。いや、怒っていないように見えても、心の中では怒っている。被害者が怒り心頭に発し、被害者から怖そうににらまれれば、その剣幕に圧倒され、加害者は謝罪せざるをえない。心の中では、ぼくも悪かったけれども、あんただって悪いのでは・・・と思っていても、「すみません」の一言くらいはふつう発してしまうものだ。

こういう場合、「すみません」の一言があったことをきっかけに、「いや、お互いさまですよ」「保険で直しましょう」となって、冷静さを取り戻すのがふつうだ。しかし、利害関係が絡んだ交通事故の場合、その後の示談交渉をいかに有利にするために、ときにベドウィン的反応を示す被害者がいる。 すなわち、もし加害者が謝罪したなら、「自分の失敗を認めること、それは無条件降伏を意味する。そんなことをしたら「人間はすべて信用できない」(Q氏)のだから、なにをされようと文句はいえない。・・・100円のサラを割って、もし過失を認めたら、相手がベットウィンなら弁償金を1000円要求するかもしれない」のだ。

事故直後、自分が100%悪いと思っていたのだが、その後、第三者からの入れ知恵などで、自分は100%悪いとはいえないため前言を撤回したり、自分の加入する保険会社から、妥当な過失割合に基づいてしか支払われないと言われたり、妥当な損害の範囲内でしか支払われないと言われたりして、あわてて、前言を撤回することはよくあることだ。そのときは、「ベットウィン的論理」にしたがって、あのとき謝罪したではないかと加害者が謝罪したことを前面に持ち出す被害者がときどきおられる。謝罪したこと、すなわち全面的に自分の非を認めたのだから、過失割合ならあんたが100%悪いことになるし、全損事故なら、新車賠償の要求にもなりうるかもだ。

交通事故直後の謝罪はしてはならないのか

さて、表題に戻る。

交通事故直後の謝罪、あるいは人身事故の場合の入院先等での謝罪を決してしてはならないのか。こういう場合、保険会社は謝罪など決してしてはならないとアドバイスすることがある。こちらでやるから、あなたはお見舞いにもいかないほうがいいなどというのだ。そのくせ、うちは事故当事者じゃないのだから道義的責任と言われても・・・などと被害者に文句を言う。そのため、加害者・被害者間がよりいっそう険悪になり、ますますギクシャクする。

ぼくならこういう場合、誠心誠意をもってあたる。だから、謝罪するのはもちろんである。何年か前のことになるが、T字路交差点でぼくは運転をあやまったため事故を起こしたことがある。ぼくは突き当たり路側だったので、ぶつかる前に、ぼくが加害者になることを瞬時に悟った。幸い、相手もぼくも怪我がなかった。ぼくはその場で平謝りし、その後、被害者の勤務先へも2度お伺いした。そこまですれば、大きなトラブルに発展することはまずない。あとは、お互いが加入している保険会社の話し合いでまるくおさめることができた。

問題は、被害者が、加害者が謝罪したことを理由にベドウィン的対応をしてきたときである。あるいは、加害者が謝罪だけでなくて念書まで書いてしまった場合である。  

念書など示談の効力

交通事故に限らないが、日本人は「すみません」ということばを発することにたいして抵抗がない。まるで挨拶ことばのように気楽にこのことばを使っている。かくいうぼくもその例外ではない。上司に叱責されたときなどに、「すみません」ということばを、本当にすまないと思っているかどうかとは別にして、常用していた。「すみません」に、真の謝罪の意味などあるはずがない。ときには、心の中で「ベロ」を出して使っているかもしれない。とりあえずは、相手を立てるための「慣用句」なのである。相手だってこのことを熟知していて、ふつうは、「すみません」という一言をとりあげて、全面的に屈服したなどとヤボなことは言わないものである。社会のいわゆる潤滑油みたいなものだ。

したがって、交通事故で「すみません」と当事者の一方が発したところで、それが全面的に自分が悪かったことを意味しないことなど、日本人なら当然に知っているはずである。それが口で発する限りにおいては。したがって、「すみません」が、どうして全面的にこちらが悪かったことになるのかと反撃すればすむことである。

しかし、「すみません」だけでなく、さらに突っ込んで「自分が100%悪い」とか、「全額弁償します」などと念書でも書いてしまったらどうなるか。こうなってしまうと、ただの挨拶ことばではすまされなくなる。契約自由の原則。すなわち、念書の効力あるいは示談の効力の問題として有効なのである。それが原則である。しかし、無効となる例外がある。

示談の有効・無効の判断基準

いったん成立した示談が無効になることがある。よくあるケースとしては、事故当事者の一方が他方に対して威圧的に振る舞い、意に反する示談をしてしまった場合である。あるいは、示談時に軽症だと判断して示談したが、その後予想に反して症状が重篤化した場合などである。示談が有効か無効かを判断する事情として以下のことがあげられる。

示談締結当時の事情

事故直後に相手を脅したり、相手方の家や入院中の病院へ押しかけるなどして、無理矢理本人の意思に反して示談書に署名捺印を強要したような場合は、民法96条1項「詐欺または強迫による意思表示はこれを取り消すことができる」。

取消無効がかんたんにできると誤解されている人がときどきいるので、念のために書いておく。取り消し無効というは、取り消すまでは有効ということである。我妻栄風にいうと、有効か無効かハッキリしない灰色でなくて、ハッキリ有効なのである。そして、詐欺や強迫などによってされた意思表示、すなわち、瑕疵ある意思表示は、騙されたり、脅かされた人が取り消しできるが、そのハードルは決して低くない。相手方の行為に詐欺や強迫があったことを、騙されたり、脅かされた人が立証しなければいけないからである。

たとえば詐欺についていうなら、ある美術品のニセモノをつかまされたときは、それが本物の美術品だと誤信させ、その誤信に基づいて購入させられたという2つのプロセスが必要なのだが、詐欺を立証するときにもその2つの故意を明らかにしないといけないとされている。契約が詐欺であったと主張する際には、この2段階の故意を前提に、欺く行為と錯誤、錯誤による意思表示という要件がないと詐欺は成立しないとされている。

強迫についても同様のことがいえて、

強迫とは、害悪を示して相手方を畏怖させることであり、これによってなされた意思表示が問題となる。取消が認められるには、強迫・畏怖・意思表示の間にそれぞれ因果関係が存在すること、強迫者に2段の故意のあること、および、違法性が認められることが必要であり、この点詐欺と同様である。「民法総則」船越隆司(P170)

示談締結時における損害発生の予見性

示談当時、予想されなかった損害が生じ、かつその損害と当初の事故との間に社会通念上相当と認められる因果関係がある場合は、示談後であっても示談のやり直しや、後発損害分については追加的に示談できる。たとえば、大した傷害でないと思って示談したものの、その後、予見できないような後遺障害が発生し、当初の示談額ではあまりに低額だと判断された場合である。

示談の効力無効判決

示談時に強迫があったとしたケース

千葉地裁 平成20年9月5日判決
接触事故を起こした後に逃走した者が、相手方と2日後に締結した示談について、強迫による取消・無効を認めるとともに、相手方に対し、強迫による慰謝料と弁護士費用の支払いを認めた事案。

 

示談書の書き方に不備があったケース

大分地裁 昭和43年7月31日判決
示談による債務免除の効力を県の被用者との関係でのみ認め、県に対する関係では否定した事例

 

東京地裁 昭和45年8月31日判決
被害者(タクシー運転手)の勤務先の事故係と加害者との示談につき、事故係に代理権が与えられていなかったとした事例。

 

神戸地裁 昭和57年10月28日判決
示談書が自賠責保険金が納得しえるものであれば示談解決する意思のもとに自賠責保険金を受領するために作成されたものであるとして、示談の成立を認めなかった事例。

 

示談書の権利放棄条件の効力を否定したケース

最高裁 昭和43年3月15日判決
一般に不法行為による損害賠償の示談において、被害者が一定額の支払を受けることで満足し、その余の賠償請求権を放棄した時は、被害者は、示談当時にそれ以上の損害が事後に生じたとしても、示談額を上回る損害については、事後に請求しえない趣旨と解するのが相当である。しかし、全損害を正確に把握し難い状況のもとにおいて、早急に小額の賠償金をもって満足する旨の示談がされた場合においては、示談によって被害者が放棄した損害賠償請求権は、示談当時予想していた損害についてのもののみと解すべきであって、その当時予想できなかった不測の再手術や後遺症がその後発生した場合その損害についてまで、賠償請求権を放棄した趣旨と解するのは、当事者の合理的意思に合致するものとはいえない。

 

最高裁 昭和51年3月18日判決
交通事故に基づく損害賠償請求について、当事者間にて成立した和解契約に関する示談書中「右合意により本件事故による損害賠償問題は、一切円満解決したので今後本件に関しては、いかなる事情が生じても決して異議申立訴訟等は一切しないことを確認する」旨の本旨は、債務者(加害者)から示談による約定を履行したときは、債権者(被害者)において将来異議の申立て、訴えの提起など一切しない旨の合意が成立したことを意味するにすぎず、債務者らが右約定を履行すると否とにかかわらず、右示談内容につき、当事者間で不起訴の合意が成立したことを意味するものではない。

示談契約の要素に錯誤があったケース

神戸地裁 昭和44年8月7日判決
示談契約における被害者の意思表示には、その現症状がが将来悪化し、後遺症の発生するようなことはなく、日時の経過とともにやがて完治しうる程度のきわめて軽症のものであることが前提にされていたものと解されるところ、その後ついに、後記後遺症の固定症状を残すに至ったものであることが認められ、したがって、前記示談の前提と異なり、真実は被害者の傷害はきわめて重大なものであったのであるから、示談契約における被害者の意思表示には、その重要な部分につき錯誤があったものというべきである。しかして、いわゆる示談契約なるものの性質、これを和解契約類似の一種の無名契約と解すべきところ、紛争の直接の対象たる将来の損害賠償請求権それ自体についてではなく、その前提事実たる被害者の症状について錯誤があったのであるから、かかる場合には、民法696条の適用はなく、結局、本件示談契約は要素に錯誤があるから無効である。

 

東京地裁 昭和50年4月24日判決
事故から5年後に生じためまいなどの症状(頭痛・めまい・耳鳴りなどの自覚症状は強度であり、起床、寝返りなどがほとんど困難になり常時介護を要する状態)についての、事故から1年後の示談は、右症状による損害に関する限度により錯誤により無効とした。

公序良俗ないしは信義誠実の原則に反するケース

名古屋地裁 昭和49年4月19日判決
事故による全損害を正確に把握し難い状況のもとにおいて、早急に小額の賠償金ををもって示談がなされた場合、その示談によって被害者が放棄した損害賠償請求権の範囲は、示談当時予想されていた傷害にかぎられるものと解すべきであって、その当時予想できなかった後遺障害による損害については、被害者は後日その損害の賠償を請求できるとした。

 
【17・04・25】大幅に加筆した(4章以下)上に、表題も変えた。

コメント

    • おさく
    • 2014年 4月 23日

    全く不条理というか、世知辛いです。高いと言われる日本人の民度って何なのだろうと思いますね。でも自分のお客様に不利益を与える訳にはいかないので現実、私もそうアドバイスせざるを得ません。悪しき慣習ですが覆すには誰かが犠牲になって判例を作る、変更するしかないのですかね。

      • りゅうた×2
      • 2014年 4月 23日

      おさくさん、コメントありがとうございます。

      これにはつづきがありますので、またごらんになってください。

      それと、本の整理をしていたら、この記事で名前を出した石田英一郎氏が、ぼくが引用した本多勝一の文章とまったく同じところをそっくりそのまま引用して(ぼくの引用は若干省略がありますが)、交通事故に言及していましたので、こちらも参考になるんじゃないかと思いました。

      追記しますので、あわせて読んでいただければと思います。

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突然、交通事故にあわれた被害者は、怪我をされたり、車を破損などされたりして大変なことです。その損害の賠償をしてもらうために、これから、加害者そして加害者側の損保担当者を相手に示談交渉を進めなければならなくなります。しかし、交通事故は人生でそう何度も経験するわけではありません。なにをどのようにしたらいいのか途方に暮れてしまうのがふつうです。

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交通事故に詳しい弁護士が知人にいるような幸運な方は別にして、たいていの方は途方に暮れてしまうことでしょう。一昔前は、素人とプロの交渉ごとということにふつうはなって、プロの思い描くストーリーどおりに押し切られるのがふつうでした。しかし、ネットが発達した現在、示談交渉を進める上での情報がネットを検索すればあふれかえっています。が、その情報は正しいものもあれば正しくないものもある。玉石混淆です。それらの情報に接した事故被害者にとって、どの情報が正しくて信頼できるのかがまずわかりづらいし、自分だけでは手に負えなくて、調査や交渉ごとをだれかに任せることも時に必要になってきます。が、ネット上には、われこそは事故被害者のためだと謳っているものばかりなので、実際にいったいだれを信頼したらいいのかわかりません。

知識とは中立なものであること

ここで注意してほしいのは、情報の正確さもさることながら、その情報(知識)そのものが中立なことです。

昔、東大卒が多い自民党が間違えるはずがないと豪語している自民党支持者に会ったことがあります。ぼくは苦笑するしかありませんでした。たしかに東大卒は勉強をいっぱいしているわけだから、その知識量も多くかつ正確だといえるかもしれません。ただ、知識それ自体はあくまで中立なものであり、どちらにも役に立つ武器なのです。したがって、その正確でたくさんの知識をどちらの側に使うかにある。わかりやすいたとえ話をしてみましょう。

知識は刀という武器と同じ

hitininnno
その昔、武士という職業が存在しました。この武士は帯刀を許された職業のことであり、刀の専門家です。殿様を頂点にして、殿様に雇用され、殿様を守るために武器である刀の技術を日夜みがいていた。

この武器である刀自体は殿様を守るためにも使えるし、農民に加勢して殿様に刃向かうためにも使えます。しかし、悲しいかな、現実は殿様を守るために使われた例が圧倒的に多く、農民に加勢するために使われた例など不幸にしてきわめて少なかった。ごく稀に後者のような武士が現れますが、こういう武士こそ庶民にとっての英雄であり、「七人の侍」はまさにそのようなタイプの武士たちでした。

利益が一致しているか相反しているかが重要

したがって、問題はその使い手自身にあります。使い手がどちらの側に立つかで知識もそれぞれの側の武器になる。そして、その使い手がどちらの側に立つかは双方の利益が一致するか相反するかでふつうは決まってきます。

この、肝心要のことを説明したサイトが皆無といっていいほどにみあたらないのは不思議なことです(というか、あえて否定しているサイトさえいくらでもみつかるくらいです)。

記事を読んでいただければたちどころにわかることですが、当事務所は「立場」を鮮明にしております。あえて鮮明にしているのは、人間や社会に対する見方は、その人自身の立場から自由にはならないからです。中立を装うことは考察を浅くし、論旨を不明確にし、自己を無責任な立場に置くことになる。「立場」のない「立場」などありようがない。当事務所の立場は、ぼく自身が社会的弱者であるため、弱者の立場に徹することです。ぼくのような弱虫は「七人の侍」のようには決してなれないけれど、せめてその心意気だけでも真似して、社会的強者に阿らないようにしたい。そういう気持ちで当サイトをたちあげました。丸山真男のことばを最後に引用しておきます。

丸山真男から

ゲーテは「行動者は常に非良心的である」といっておりますが、私たちが観照者、テオリア(見る)の立場に立つ限り、この言葉には永遠の真実があると思います。つまり完全にわかっていないものをわかったとして行動するという意味でも、また対立する立場の双方に得点と失点があるのに、決断として一方に与するという意味でも、非良心的です。にもかかわらず私たちが生きていく限りにおいて、日々無数の問題について現に決断を下しているし、また下さざるを得ない。純粋に観照者の立場、純粋にテオリアの立場に立てるものは神だけであります。その意味では神だけが完全に良心的であります。

私たちの社会というものは、私たちの無数の行動の網と申しますか、行動の組合せから成り立っております。社会がこうして私たちの行動関連から成り立つ限りにおいて、私たちは行動あるいは非行動を通じて他人に、つまり社会に責任を負っています。その意味では純粋に「見る」立場、ゲーテの言う意味での完全に良心な立場というものは、完全に無責任な立場ということになります。

したがってこの点でも神だけが、完全に無責任でありうるわけであります。認識することと決断することとの矛盾中に生きることが、私たち神でない人間の宿命であります。私たちが人間らしく生きることは、この宿命を積極的に引き受け、その結果に責任を取ることだと思います。この宿命を自覚する必要は行動関連が異常に複雑になった現代においていよいよ痛切になってきたのです。

世のなかには一方では、認識の過程の無限性に目をふさぎ、理論の仮説性を忘れる独断主義者もいれば、またそもそも認識の意味自体を頭から蔑視する肉体的行動主義者がいます。しかし他方その半面では、物事はそう簡単にはイエスかノーかきめられないのだ、もっとよく研究してからでなければなんともいえないという名目の下に、いつも決断を回避することが学者らしい態度だという考え方がかなり強い。

あるいは対立する政治的争点に対して、あれももっとも、これももっとも、逆にそれを裏返しとして、あれもいけない、これもいけないということで、結局具体的な争点に対して明瞭な方向性を打ち出すことを避ける態度をもって、良識的であるとか、不偏不党であるとか考える評論家やジャーナリストもかなりいるようであります。

たびたびゲーテの言葉を引いて恐縮ですが、ゲーテはこういうことをいっています。「自分は公正であることを約束できるけれども、不偏不党であるということは約束できない。」今申しましたような世上いわゆる良識者は対立者に対してフェアであるということを、どっちつかずということと混同しているのではないでしょうか。
「現代政治の思想と行動」丸山真男 P452-454

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