生活保護申請に同行してわかったこと

猫の殺処分

ぼくの自宅周辺には野良猫が何匹かいる。親とその子供らしくて、7、8匹はいるらしい。この前、天気のいい日に自宅前で障子張りをやっていたら、そのうちの1匹がぼくのそばにやってきて寝ころんだ。喉元をさすってやったら、気持ちがいいらしくて、ニャ―ニャ―鳴き出した。その鳴き声をききつけて、さらに4、5匹集まってきた。実をいうと、ぼくは猫が好きというわけでもなくて、かつて高校生のころ自宅で数匹飼ったことがあって、そのときに猫のノミにずいぶん悩まされたことがあったからだ。なんか全身がかゆいなあと思っていたら、畳の上を何匹かのノミがぴょんぴょん跳ね回っていた。それがあって以来、猫は苦手なのである。

この猫たちを、うわさでは近所の人が処分してくれと、役所に通報したらしい。そこまでしなくても、猫にだって生きる権利はあるだろう。人に迷惑をかけたわけでもないし、ネズミを捕る猫だっているにちがいない。フンはするけれど、それくらい、生きていればおたがいさまじゃないか。互いに身体をくっつけあって、仲良く慎ましく生きているだけなのに。処分するというのは、飼い主をみつけてくれるわけでも役所が飼育してくれるわけでもなく、いわゆる「殺処分」にすることだ。モノなら廃棄したところでなんともないが、猫は生き物だ。命があるのだ。この世は人でも生きていくのがたいへんだが、犬や猫はもっとたいへんだ。車にひかれないように、近所の人に虐待されないように、保健所の「犬殺し」(ぼくが小さいころは怒りと軽蔑と恐怖とが入り混じった感情で、そう呼んでいた。)からうまく逃げることができるように、ぼくは願うだけだ。

ところで、役所に通報すると、猫はどんなふうにして「殺処分」されるのか、先日読み終えた辺見庸「単独発言」に、こんな描写がされていた。

私はあるとき、犬が殺される風景、システムをたまたま見る機会がありました。

この社会は、いたいけな動物たちへの愛と慈しみに満ちみちているかのような幻想をあたえているわけですが、私には市場原理に基づいて愛とか慈しみ、癒しみたいな言葉と思いが、単に一山いくらで売り買いされているにすぎないと思えるのです。

ペットたちもまた大量消費され、また再生産されていく。年間60万匹くらいの犬、猫が日本では行政機関による殺処分されております。つまり、ガスで殺され、焼かれているわけです。捨て犬、人を嚙んだりする犬、飼い主が飽きてしまったり、それからブリ-ディングに失敗による犬もいます。バブル期にはペットをみんな欲しがって、業者がどんどん近親相姦させていくわけです。そこで障害をもつ犬が生まれてくる。それは商品化できないから片っ端から自治体にある犬、猫の処分場にもっていく。これが公的機関がやっているわけです。話しには聞いていました。けれども私はそれを実際に見てほんとうに愕然としたわけです。

私が見学したのは、犬の処分場でした。犬たちは最初は大部屋に入れられているのですが、仕切りの鉄柵がスライド式に移動して金属ボックスに犬を入れて閉じこめてしまう。そしてガス室に送っていく。すべて中央制御室にいる人がボタンで操作しているのです。ガスが注入され一酸化炭素が金属ボックスに注がれる。安楽死だというけれど冗談じゃない。モニター・テレビで見ていますと、犬たちは痙攣するし、口を苦しみのあまりカーっと150度くらい開けるのです。私は犬がこんなふうに苦悶するのを見たことがない。

で、私はそれを見てリポートを書き、それからテレビの映像向けの文章を書き、エッセイも書きました。驚いたことに、これに対する反響が凄まじいわけです。感動したという手紙をたくさんもらいました。いろんな動物愛護団体から講演をしてくれといわれました。私は(人の殺処分としての)死刑制度に反対する文章を何度か発表したことがあります。こちらにはさっぱり反響がないのに、ペットの殺処分には皆が涙を流すのです。じつに不思議な国だなあと私は思います。

 
人が殺処分されようが生活に困窮し餓死しようが無関心なくせに、犬・猫だと涙を流す。たしかに、不思議の国・ニッポンだ。犬や猫がどんなにかわいくて忠犬・忠猫だったとしても、人のほうが大切だ。そして、人は人として平等・対等に尊重されなければならない。それが極悪人であれ、民族・肌の色とも無関係に、金持ちだろうが貧乏人だろうが対等に尊重されなければならない。それを人間中心主義(ヒューマニズム)という(注)。

人間中心主義について
かつて、大学の研究者がぼくの記事に噛みついてきたことがあった。彼は、人がどうして尊重されるのか、まるで理解できていなかった。人間中心主義について理解の助けになるため、そのやりとりをそっくりそのまま引用する。

かつき
2017年 2月 24日
三年も前の記事にコメントして申し訳ありませんが、どうしても気になったもので。
数行しかない赤旗法の条例文をまともに読んで該当項目を書かれているのか疑わしいです。
引用にも書かれている通り、赤旗法は馬車との混合交通のために制定された法であり、歩行者とか無関係です。
馬車の時代から歩行者との交通事故は多発していましたし、既に当時のロンドンで車道は車両のためのスペースでした。
赤旗法は新しいものに対する猜疑心と、既得権勢力の新産業弾圧に終始していてそれ以上の意味は全くない完全なる悪法です。そこから無理やり反原発につなげる理論展開は天声人語的と言いますかなんと言いますか。

必要なのは歩行者と車両が分離された都市計画であり、「道路は歩行者のためのもの」などという思想は「道路は車のためのもの」と同類の自己中心的な考えだと感じました。
歩行者は交通弱者と言いますが、それは物理的な強度が低いため安全のために優先されるというだけで、車に乗っているのも人間なのですからどちらのための道路などという議論はナンセンスです。
もちろん仰られている通り、生活道路で歩行者に最大限注意して運転するのは当然ですが、それは既に義務化されている事であり、法令をまともに順守して運転しているのに子供が飛び出したくらいで事故が発生した場合はそもそも道路構造に欠陥があると言えます。
やはり必要なのは時代に対応した都市計画であり、ハンプなどはその代表例です。
最後にもう一度強調しますが、生活道路は確かに居住者のものですが、そこを走行する車に乗るのも悪質な抜け道利用などを除けば殆どが居住者なんですよ。

 

ホームズ事務所
2017年 2月 24日
批判は、それによって自分の蒙を啓いてくれるきっかけになるなら、大歓迎です。もし、ぼくの書いたことが間違っているのだったら、訂正に応じるのはもちろんです。

赤旗法については、以前の記事で、赤旗法に関する本を探しているところだと書いたことがあり、その後、この記事を書くまでに、翻訳本もふくめ、7冊買い求めました。が、どれも詳細に説明してあるものはありませんでした。

したがって、「かつき」さん、貴方のおっしゃる

>数行しかない赤旗法の条例文をまともに読んで該当項目を書かれているのか疑わしいです。

・・・は、まさにそのとおりです。ごめんなさい。探し方が足りなかったのかもしれないが、条文の解説までしてある本など、ぼくの探した範囲ではなかったですから。市販化され入手可能な本で、そのことに触れたものがもしあるのでしたら、ぜひ教えてほしいし、「疑わしい」と疑問を呈するだけでなく、その解説もできればしていただきたかった。そうでないと、真偽のほどが不明なため、ぼくの記事を訂正していいのかどうか判断できないではありませんか。

貴方が言うには、
>馬車の時代から歩行者との交通事故は多発していましたし、既に当時のロンドンで車道は車両のためのスペースでした。

とのことですが、「馬車の時代から歩行者との交通事故は多発してい」たことなど当たり前のことです。ただし、赤旗法ができた当時、蒸気自動車が道路を走り出したため、その物音に馬車のウマが驚いて、暴走し、歩行者と接触して死傷者が多発したという事情は、蒸気自動車が出現する以前にはなかったことです。したがって、

>歩行者とか無関係です。

というのは根拠のある話とも思えません。少なくとも、疑わしい。これはどこで確認されたのでしょうか。後学のためにも教えていただきたい。この立証責任は貴方にあります。

それともうひとつ、「道路は歩行者のためのもの」というぼくの主張は、生活路に限定したものです。こういう勘違いをされる方が万が一現れたらとも思ったので、わざわざ何度も断って書いたはずなんだけれどなあ。もう一度読み返しましたが、やはり何度も、これでもかと言うくらい断っていますね。どんな道路でも歩行者のためなどということはありえない話だからです。

以上は、貴方のコメントを好意的に受けとめて書いたものです。ただ、批判をするうえでの論拠が欠けているため、訂正していいのかどうか、どう訂正すべきなのかがわからないというにすぎません。

本論はここからです。貴方の根本的な間違いは、

>歩行者は交通弱者と言いますが、それは物理的な強度が低いため安全のために優先されるというだけで、

という言説にあります。

これにはびっくりしました。たったそれ「だけ」から、歩行者が交通弱者だと規定されていると、まさか本気で思っているのですか。どこぞの大学の学生か研究者か知りませんが、こんなこともわからんのかなあ。歩行者が尊重されるのは、まさに人だからです。人間中心主義。人が死傷すれば、そのことを重くみる。これが人権の核心です。「車に乗っているのも人間なのですから」ということのほうがナンセンスですよ。歩行者とクルマがぶつかって、クルマにのっているほうがふつう死傷しますか。貴方は、物理的な強度の違いから決まるということですが、そんなことはありません。逆の例をあげましょう。ネコとぶつかって人が怪我をすれば、(物理的強度の低い)ネコ(の飼い主)が責任をとらされる。それでネコが死んだとしても、物損事故扱いにしかならない。

最後にもう1つ。わざわざ強調されていますが、「生活道路は確かに居住者のものですが、そこを走行する車に乗るのも悪質な抜け道利用などを除けば殆どが居住者なんですよ。」

だから、何なんですか。だから、加害者と被害者は互換性があるとかおっしゃりたいのかなあ。いずれしろ、何をおっしゃりたいのか、意味不明ですね。ぼくにはさっぱりわからないから、これも次回までの宿題にしておきます。

「生活路上における交通安全対策としてのボンエルフ、ハンプそして赤旗法」

在日中国人の方と生活保護申請に同行することに

もう10年くらいも前のことになるけれども、交通事故の被害者である富山県T市在住の在日中国人のAさんと後遺障害の件でお会いする機会があった。その方は、日本人である夫から暴力を振るわれ、当時母子寮に住んでいた。事故による身体の不調と生活が相当に苦しいことを拙い日本語で訴えた。同情したが、ぼくは生活保護くらいしかそのときは思いつかなかったので、生活保護をうけたらどうかと提案してみた。だが、本人いわく、そのことで何度か市役所に行っているのだけれども、担当者がけんもほろろの態度でまったく埒があかないということだった。提案したてまえ知らん顔もできないし、その日は特に他の予定もなかったので、ではぼくもお力になれるかわからないが、同行しようということになった。それで、当日、市役所の担当部署へ行ってみた。

水島宏明氏の「母さんが死んだ しあわせ幻想の時代に」

当時、ぼくが生活保護に関して知っていることといえば、水島宏明氏の「母さんが死んだ しあわせ幻想の時代に」という著書を通じて、生活保護申請者に対しいわゆる水際作戦が横行しているらしいことだった。水島氏の著書を読んでおられない方もいるだろうから、その本のエピローグだけでもご紹介したい。
 

昭和62年1月。3人の子供たちのお母さんが死んだ。死因は、”餓死”。子供達は、下から小学4年、小学5年、中学2年と、いずれも男の子ばかり。おかあさんは、離婚したため夫はなく、1人で育ち盛りの子供を育てていた。おかあさんは、必死で働いた。生活保護を打ち切られて5年間。収入の少なさは次第に生活のアチコチに”無理”を生じさせた。借金――それは親しかった友だちとのつながりを断ち切った。そして病気。疲れ果て体調を崩したお母さんは、アパートの一室で、身動きひとつできなくなった。そして、とうとう真冬の寒い夜、天井を見つめながら息を引き取った。お母さんは福祉行政に何度か助けを求めていた。もし受給することができたなら死なずにすんだ生活保護には、けっきょく、冷たく拒絶された。

 

昭和62年といえばいわゆるバブル時代のことであり、当時の日本は「JAPAN as NO1」などと経済大国であることに浮かれていた時代である。一方における美食・飽食の広がりと、他方における福祉行政の貧困による餓死者の存在。お金が有り余っていて、税収が多かった当時でさえ、水際作戦などといって法律上の根拠がない窓口指導により、本来なら生活保護を受けて然るべき人たちが生活保護申請を事実上拒絶され、餓死にまで追いやられていた。そのことがたんたんとこの本で描かれており、読み終えたあと、こんなひどいことがあっていいのだろうかと、ぼくは怒りに震えた。そして、生活保護申請を拒絶するために持ち出されていたのが扶養義務者への扶養請求権の先行請求だった。生活保護を受ける前に、配偶者なり兄弟なりに面倒をみてもらえということなのである。ぼくが同行した先でも実をいうと同じ理屈が持ち出された。

生活保護担当者とのやりとり

「Aさんのだんなさんから養育費をもらったらどうですか」

「Aさんのだんなさんは無職ですよ。収入のない人から養育費なんてもらえるはずないでしょ。それに、彼女はだんなさんからの暴力から逃れるため今母子寮に住んでいる。あなた、そのことを知っていてあえてそんなことを言うのですか。まずは現実を踏まえた提案をしてください」

「では、弟さんが日本にいると聞いております。そちらから援助していただくことは可能なのではないでしょうか」

「馬鹿なことを言ってはいけませんよ。彼女はすでに弟さんからも援助をしてもらっている。弟さんは日本に来てまだ間がないし、裕福でもない。もう借りられず、八方手を尽くした結果、生活保護に頼ろうとしている。あなたはそのことを彼女から知らされているくせに、どうしてそういう愚問をするわけだ」

担当者は、さらにこういう屁理屈まで持ち出してきた。
「Aさんは車をお持ちです。生活保護を受けるためにはそういうゼイタク品をまず処分し換価してからでないとダメです」

「彼女の軽自動車がゼイタク品ですかね。彼女は休みがちとはいえ通勤上車を使っている。その車を処分したら、通勤が不便この上なくなる。自動車を処分しろというのは仕事をやめろというのに等しい。そもそも生活費の全部を請求しているわけでなくて、不足分を何とかしてもらいたいと言っているだけです。しかもお子さんは難治性の喘息持ちです。ぼくもかつて喘息に悩まされたことがあるのですが、あれは時に死にいたることもあります。そのため、病院への救急外来の必要もあるのですが、あなたはそのとき代わりに車で送ってくれるのですか」

さらにさらに、こんな信じがたいことまで言ってきた。
「Aさんは交通事故の被害者だと聞いています。後遺障害もあるようです。その保険金をまずもらうことが先です。それでも足りない場合に生活保護をうけるべきです」

「彼女は後遺障害が残存していると主張しているのは事実です。しかし、いったん治療を中止して2か月後に治療を再開した経緯があるのです。この場合、再治療まで治療を受けていないことと事故との因果関係が当然に疑われます。後遺障害があるかどうかは自賠責調査事務所が判断します。ぼくの経験から言わせてもらえば、後遺障害に該当する可能性は先ほどの理由から極めて低い。仮に後遺障害に該当し保険金がおりたとしても、それは数か月も先の話です。彼女は今生活に苦しんでいる。先の不確かな話を持ち出して生活保護申請を受けつけないのはおかしくないでしょうか」

口から出まかせまで言って、申請を絶対通させないという必死さしか感じられない。申請を受理させるためには、事前の準備が必要である。ぼくはこの一回だけの突然の同行だったため、知識もなく見事撃退されてしまった(苦笑)。もう同行するようなこともないだろうが、もし次回チャンスがあるなら、担当者ののらりくらりの対応にむきにならないで、相手がああ言ってきたらこう切り返すなどゲーム感覚で楽しめるくらいの気持ちの余裕が必要だと思う。

水際作戦とは

後でわかったことだが、俗に水際作戦と呼ばれる窓口指導は、法律上の根拠を持たない事実行為であり、いわゆる行政指導の一つであった。この窓口指導については行政手続法33条に申請に関する注意規定がある。

申請の取下げ又は内容の変更を求める行政指導にあっては、行政指導に携わる者は、申請者が当該行政指導に従う意思がない旨を表明したにもかかわらず当該行政指導を継続すること等により当該申請者の権利の行使を妨げるようなことをしてはならない

 
さらに同法35条では、

Ⅰ:行政指導に携わる者は、その相手方に対して、当該行政指導の趣旨及び内容並びに責任者を明確に示さなければならない。
Ⅱ:行政指導が口頭でされた場合において、その相手方から前項に規定する事項を記載した書面の交付を求められたときは、当該行政指導に携わる者は行政上特別の支障がない限り、これを交付しなければならない。

 
となっている。

この立法趣旨について、

このタイプ(申請に関する)の行政指導は、実際上極めて強い威力を発揮してきたが、・・・問題が多い。なぜなら、行政庁が、申請書を受け付けたにもかかわらず処分しないということであれば、行政事件訴訟法により義務付け訴訟等で争うことができる。しかし、法的に申請自体がなされていないということになると、抗告訴訟に持ち込むことができず、しばしば「申請書を出した、出さない」という水掛け論になってしまう。ともすると、申請者側(注:本文では業者側となっている)には何ら救済手段がないことにもなりかねず、法治主義の観点からすこぶる問題である。

そこで、この類型の行政指導について、行政手続法は、申請者が行政指導に従う意思がない旨を表明した以上は行政指導を継続してはならないことを明示するとともに(行政手続法33条)、申請について到達主義を採用し、行政庁は遅滞なく審査を開始しなければならないとした(同7条)。

これにより、法律上は申請書を「受理」しないという運用は認められなくなったが、行政指導の性格上、相手方が任意に応じる限り、それが事実上行われていることを阻止することはできない。このタイプの行政指導が今後なくなるかどうかは、国民の側が指導を行おうとする行政当局に対して意識的な対応をなし得るかどうかにかかっている。(「行政法」櫻井敬子他より)


 
そして、35条2項により、行政担当者に対して水際作戦の内容とその責任の所在を明確化・書面化することを要求することで、「密室における内輪の関係」から「緊張感のある外部関係」(「行政法のエッセンス」櫻井敬子より)に事態が変わるということなのである。

 
行政指導では生活保護受給希望者が任意で応じているというフィクションがとられるのだが、35条Ⅱの請求権を行使すれば水際作戦の違法な内容はとても書面化できないため、その責任の所在を明確にすることもできない。したがって、その時点でそのようなフィクションは成立しなくなる。ここが重要なので繰り返す。担当者に対して水際作戦の内容とその責任の所在の書面化を要求すること。録音もするべきだろう。

生活保護を申請しようとした人の中にはこの水際作戦でたいへん嫌な思いをしている人がたくさんいるだろうから、もうそんな経験はごめんだという方は、申請書を先に書いて有無を言わさず出してしまうか、配達証明付内容証明という方法でもいい。生活保護申請は要式行為だが、役所の申請用紙は必要なく自分で勝手に文書を作ればいいのだ(その後、法改正がされて、役所備え付けの申請書を提出することが要件化された。単刀直入に、無駄話(水際作戦のこと)につきあっている意思はないので、申請用紙をくださいと言てみたらどうだろうか。)。

生活保護は車を持っていても申請できる

車を持っていると生活保護の申請はできないのだろうか。あるいは、親族がいると、生活保護は受けられないのだろうか。これらのことについては、日弁連の資料がたいへん役に立った。

すなわち、

①車を持っていても、通勤やその他必要性があれば換価する必要がないこと。
②親族への援助は強制できないこと(ただし、親族照会は避けられない)。

 
である。

生活保護担当者はそのことを熟知しているはずなのに、どうして平気でウソをつけるのだろうか。

福祉川柳事件

担当者は、いい歳こいたおっさん2人だった。家庭に戻れば良きパパ、良き亭主なのだろう。愛犬家・愛猫家なのかもしれない。しかし、他人には冷酷そのものだ。ウソまでついて恥じることがまったくない。たまたま冷酷・人格下劣な担当者にあたったのだろうか。そう思いたいのだが、どうも違うようだ。というのも、保護行政を担当するケースワーカーなどの福祉職員の本音が炸裂した事件があったからである。「福祉川柳事件」である。先の水島氏の著作を再読していたら、「あとがき」にこの事件について書いてあった。

1993年、生活保護者をあざ笑う川柳が、ケースワーカーたちが主催する『公的扶助研究』誌(第154号)に載った。その内容が生活保護受給者への差別にあたるとして社会問題に発展した事件である。どんな川柳なのかご紹介しよう。あきれはてて、開いた口がふさがらないとはこういう場合にこそ使うべきだろう。

・金がない それがどうした ここくんな
・休みあけ 死んだと聞いて ほくそえむ
・やなにおい きっと部屋で くさっている
・救急車 自分で呼べよ ばかやろう
・苦労して 廃止した日に また開始
・川向こう 当たるといいな 空家募集
・医者に行く ちょっとぐらいは がまんしろ
・訪問日 ケース元気で 留守がいい
・いつまでも 入院しててね アル中精神
・ケースの死 笑いとばして 後始末
・風呂いけよ 低いお鼻が まがっちゃう
・親身面(づら) 本気じゃあたしゃ 身がもたねぇ
(水島宏明「母さんが死んだ しあわせ幻想の時代に」文庫P380)

 
残念ながら、ケース(生活保護受給者)への思いやりはどこにも感じられない。この差別意識丸出しの川柳を見てふつうは唖然とするものだが、たとえば元福祉職員の方がブログでこの事件をとりあげ、このように述懐している(個々の職員の方を責めるつもりはなく、職場の雰囲気を知るために、申し訳ないが引用させていただいた)。川柳の内容をみて、

当時の現場の感覚から言えば、「(感覚として)う~ん、あるある」といった受け止め方がほとんどだったような気がしますけどね。

 
職場の受け止め方としては、特に驚くべきことでもなかったようなのだ。というより、どうして問題視されるのだという受け止め方なのである。

元福祉職員の方は、続けてこう書いておられる。

私が生活保護監査担当になってから知り合ったケースワーカーの方は、ケースから個人的に金銭の貸借も依頼されて上司にも言えず苦悶している人もいましたし、深夜にケースから何度も自宅に電話のかかってくるもいました(そのケースワーカーは電話があったら2回に一回は、深夜にケースの自宅に行って話を聞いていました)。そして、暴力団構成員がケースということもありました。

実際、現場ではこのような厳しい労働状況でした。

そのような実態を知ることなく、単に川柳の字面だけを捕らえてバッシングするマスコミや各種団体、そしてそれに同調する世間のヒューマニストぶりを醒めた目で眺めていたことを思い出します。

 
過酷な勤務内容を理解していただければ、不満のひとつやふたつ川柳として表現されてもいたしかたがないということならしい。

蟹は甲羅に似せて穴を掘りたがる

ここで注意してほしいのは、過酷な勤務内容は、元福祉職員の方の実体験でなくて、すべて伝聞だということである。元福祉職員ご自身はそのような体験がなかったことを言わず語らずに告白していることである。すなわち、生活保護行政の実態において、川柳で描かれたような風景はごく普通にみられるものでなく、ごく一部の例外的な実態を取り上げたものにすぎないことである。

確かに勤務内容としては大変だし、過酷だろうと思う。実をいうと保険調査員の仕事も似ているところがある。伝聞ではなく、ぼくの実体験で語ろう。

ぼくも、事故被害者の方から、おカネを貸してくれと何度か言われたことがある。それどころか、すすんで、頼まれもしないのにおカネをあげたこともあった。

ぼくの担当した集団保険金詐欺の案件があった。保険金詐欺の容疑者のひとりが大阪に高飛びしようとしたので、当時の上司からは危害を加えられるかもしれないから「よしたほうがいい」と止められたが、高速を使って隣県までおっかけ、なんとか追いついて説得し、自首させるために警察署へ同行したことがあった。そのとき容疑者の暴力団員のA君は所持金が数百円だった。おカネがなくかわいそうになったので、1日分の生活費をあげたのだ。少額とはいえ、おカネをやるのにぼくは苦悶なんかしなかった。困っているのがわかったからである。

暴力団事務所に行ったことももちろんあるし、ここは伝聞になるが、ぼくの同僚なんて、防弾チョッキを着用して事務所に行っていた(苦笑)。「殺すぞ」と脅されたこともぼくは一度や二度ではない。ゴタゴタ言うチンピラに、保険金は払えない。これ以上ごねると刑務所行きもありえると、顔の一発や二発ぶんなぐられるのを覚悟で、本当は怖いくせに、思いっきり虚勢を張って、保険金の支払いを拒絶したことだってあった。それが仕事なんだから嫌だったら辞めるしかない。深夜に呼び出されるのがつらいのなら、断ればすむ話である。

その不満のはけ口を事故被害者に向けたことは一度もない。職場でも事故被害者を中傷するような言辞を聴いたことがなかった。倫理的に優れていたからではもちろんない。ひとつは、川柳を詠むほどのヒマがなかったことである。ひとつは、事故被害者に自分たちもいつなるかわからないからである。すなわち、事故被害者を自分とは縁のない異界の人たちだとしなかったこと。代替可能性があると認識していたことである。もうひとつは、事故被害者で不当な要求をしてくるのは、多くの事故被害者の中のごく一部の人たちだとの認識が共有されていたことだろう。
 

日弁連資料である上図をみてほしい。マスコミなどでは、なにかというと不正受給者のことが話題になるが、交通事故で不当な要求をする人がごく一部なのと同様に、不正受給者も生活保護受給者のうちのごく一部なのである。

元福祉職員が言うように、生活保護受給者の中には問題のある人もたしかにいるだろうが、それをいうのだったら、交通事故被害者にだっていくらでもいる。このように不当な要求をする人に調査員時代ぼく自身多く会っている。それでもこういう悪質な人は、やはりごく一握りである。そのごく一握りの人たちをとりあげて、その他の多くの善良な人の存在を無視して一般化する。たとえばむち打ち症で長く苦しんでいる方に対して、あれは詐病だ、きっと保険金目当てにちがいない。一部にはそういう不届者がいるだろうが、それを全部に拡張する。それは「蟹は甲羅に似せて穴を掘る」のと同様に、自分に似せて他人を考えているだけだろう。自分だったら被害者の立場を利用して、お金をジャンジャン要求する。だから、他人もそうするに違いないと考えるのだ。そういうのを「べったりリアリズム」(注)ともいう。自分の周辺の人をみたらどうか。そんな人がそんなにいるだろうか。

べったりリアリズム
自己と世界あるいは他者を区別せず、みずからの具体的な経験を無媒介に法則化する考え方。このような考え方に対する内省と批判は、戦後日本思想史における大きな課題の一つになっている。講談社文庫「戦後日本の思想」の久野収と鶴見俊輔の対談部分参照P186‐


先進国と比べて最低レベルの日本の社会保障

ところで、政府は社会保障費、とりわけ生活保護費の削減にまい進している。これは小泉改革である行政改革以降進められている政策を踏襲したものだ。現・安倍政権下ではさらにひどくなっている。

 
GDPに占める社会保障支出の割合が3年連続で減少しているとして、「こんなことは、『自然増削減』を繰り返していた小泉内閣でも起こらなかった」と、赤旗が報じている。

しかも、国際比較でいうと、日本の社会保障は先進国中最低、とりわけ生活保護予算はその低い低い社会保障費の中でもきわめて低い(GDPに占める生活保護費の割合はたった0.3%【注】)。そんなに低いのにまたさらに下げるつもりなのだ。
【注】少し古いが、こちらのサイトの記事(Afternoon Cafe)が詳しい。

さらに、親族側に扶養が困難な理由を証明する義務を課すという事実上扶養を生活保護利用の要件とする法改正まで検討している。こんな法改正を許してしまったら、現行の生活保護法は完全に骨抜きにされ、戦前の救護法の精神に逆戻りだ。生存権に基づく権利としてではなくて、国家の責任放棄による自己責任化、単なる国家による施しと化してしまう。どんなに頑張って働いても、親族に働かない・働けない・無年金等で困窮している人間がいれば、 その人に稼ぎを吸い取られてしまうという無限地獄のようなシステムだ。こんな馬鹿げた法改悪を許してはならない。

【救護法】

同法(救護法)は、1932年に施行されたが、65歳以上の老衰者、13歳以下の幼者、妊産婦、障害のため労働不能の者で、貧困のため生活できない者を対象とし、市町村長の救護義務を定め、公の義務として救済を行う建前をとった。もっとも、扶養能力ある扶養義務者がいるときは救護は受けられず、また、保護請求権が認められたわけではなかった。

保護の要件について定めた生活保護法4条1項の規定は、「保護は、生活に困窮する者が、その利用し得る資産、能力その他あらゆるものを、その最低限度の生活の維持のために活用することを要件として行われる」と定めている。これに対し、生活保護法4条2項は、「民法に定める扶養義務者の扶養は保護に優先して行われるものとする」と定め、あえて「要件として」という文言を使ってい」ない。「扶養が保護に優先する」とは、保護受給者に対して実際に扶養援助(仕送り等)が行われた場合は収入認定して、その援助の金額の分だけ保護費を減額するという意味であり、扶養義務者による扶養は保護の前提条件とはされていない。(参考)社会保障法入門・西村健一郎著


 
さらにさらに、最低賃金よりも高いとか、全世帯で収入が下から1割にあたる低所得世帯の生活費と比較して、生活保護受給者のほうが高いなどと言って生活保護費を下げることに執着している(注)が、下記の統計からもわかるように、事実は、申請を拒否されるなどして本来であれば生活保護を受けてしかるべき人たちが大勢いるのだ。生活保護の捕捉率のこの低さに注目していただきたい。
 

【日弁連HPより引用】

(注)最近の例としてはこれ。

生活保護費、最大1割下げ
厚労省、5年ぶり見直し

福井新聞 2017年12月8日 午前2時00分

厚生労働省は7日、来年度の生活保護費見直しで、食費や光熱費などに充てる「生活扶助」を最大1割程度、引き下げる検討に入った。年齢や世帯形態によって増額となるケースもあるが、一般の低所得世帯の消費支出より支給額が多いとの調査結果を踏まえ、見直しが必要と判断した。

生活扶助の支給水準は5年に1度見直している。全体では前回2013年度に続き2回連続で引き下げとなる見通し。都市部を中心に高齢単身世帯などが多く含まれ、反発が強まりそうだ。

一部の子育て世帯で減額幅が大きいため、厚労省は別の案も検討している。

まとめ

厚労省は生活保護を違法に運用している。違法行為の第1は生活保護の申請を窓口で蹴散らす窓口指導である。申請者に申請書を渡さないのは職務放棄のはずだが、各地の自治体で横行している。第2は「就労指導」という建前で受給者に嫌がらせや脅迫を行い、生活保護を辞退させることにやっきになっている。

厚労省は違法な切り捨てによって、生活保護を受けられない貧困者を増やし、人為的に「生活保護の方が高い」状況を作っておきながら、その上で生活保護基準の切り下げを行おうとしているのである。これでは、厚労省主導のマッチポンプによる貧困拡大策と表現するしかないではないか。
 

 
【17・12・09追記】
「生活保護費、最大1割下げ」厚労省の発表記事を追記した。
 

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当事務所の立場

突然、交通事故にあわれた被害者は、怪我をされたり、車を破損などされたりして大変なことです。その損害の賠償をしてもらうために、これから、加害者そして加害者側の損保担当者を相手に示談交渉を進めなければならなくなります。しかし、交通事故は人生でそう何度も経験するわけではありません。なにをどのようにしたらいいのか途方に暮れてしまうのがふつうです。

ところが、事故被害者がまず相手にするのが加害者であり、そして、実際は加害者側損保の担当者です。損保の担当者はそのことで生計を立てているいわばプロであり、百戦錬磨で鍛えた知識と経験があります。かたや、知識も経験もほとんどない事故被害者。そんな素人がプロ相手にどのように交渉していったらいいのでしょうか。

交通事故に詳しい弁護士が知人にいるような幸運な方は別にして、たいていの方は途方に暮れてしまうことでしょう。一昔前は、素人とプロの交渉ごとということにふつうはなって、プロの思い描くストーリーどおりに押し切られるのがふつうでした。しかし、ネットが発達した現在、示談交渉を進める上での情報がネットを検索すればあふれかえっています。が、その情報は正しいものもあれば正しくないものもある。玉石混淆です。それらの情報に接した事故被害者にとって、どの情報が正しくて信頼できるのかがまずわかりづらいし、自分だけでは手に負えなくて、調査や交渉ごとをだれかに任せることも時に必要になってきます。が、ネット上には、われこそは事故被害者のためだと謳っているものばかりなので、実際にいったいだれを信頼したらいいのかわかりません。

知識とは中立なものであること

ここで注意してほしいのは、情報の正確さもさることながら、その情報(知識)そのものが中立なことです。

昔、東大卒が多い自民党が間違えるはずがないと豪語している自民党支持者に会ったことがあります。ぼくは苦笑するしかありませんでした。たしかに東大卒は勉強をいっぱいしているわけだから、その知識量も多くかつ正確だといえるかもしれません。ただ、知識それ自体はあくまで中立なものであり、どちらにも役に立つ武器なのです。したがって、その正確でたくさんの知識をどちらの側に使うかにある。わかりやすいたとえ話をしてみましょう。

知識は刀という武器と同じ

hitininnno
その昔、武士という職業が存在しました。この武士は帯刀を許された職業のことであり、刀の専門家です。殿様を頂点にして、殿様に雇用され、殿様を守るために武器である刀の技術を日夜みがいていた。

この武器である刀自体は殿様を守るためにも使えるし、農民に加勢して殿様に刃向かうためにも使えます。しかし、悲しいかな、現実は殿様を守るために使われた例が圧倒的に多く、農民に加勢するために使われた例など不幸にしてきわめて少なかった。ごく稀に後者のような武士が現れますが、こういう武士こそ庶民にとっての英雄であり、「七人の侍」はまさにそのようなタイプの武士たちでした。

利益が一致しているか相反しているかが重要

したがって、問題はその使い手自身にあります。使い手がどちらの側に立つかで知識もそれぞれの側の武器になる。そして、その使い手がどちらの側に立つかは双方の利益が一致するか相反するかでふつうは決まってきます。

この、肝心要のことを説明したサイトが皆無といっていいほどにみあたらないのは不思議なことです(というか、あえて否定しているサイトさえいくらでもみつかるくらいです)。

記事を読んでいただければたちどころにわかることですが、当事務所は「立場」を鮮明にしております。あえて鮮明にしているのは、人間や社会に対する見方は、その人自身の立場から自由にはならないからです。中立を装うことは考察を浅くし、論旨を不明確にし、自己を無責任な立場に置くことになる。「立場」のない「立場」などありようがない。当事務所の立場は、ぼく自身が社会的弱者であるため、弱者の立場に徹することです。ぼくのような弱虫は「七人の侍」のようには決してなれないけれど、せめてその心意気だけでも真似して、社会的強者に阿らないようにしたい。そういう気持ちで当サイトをたちあげました。丸山真男のことばを最後に引用しておきます。

丸山真男から

ゲーテは「行動者は常に非良心的である」といっておりますが、私たちが観照者、テオリア(見る)の立場に立つ限り、この言葉には永遠の真実があると思います。つまり完全にわかっていないものをわかったとして行動するという意味でも、また対立する立場の双方に得点と失点があるのに、決断として一方に与するという意味でも、非良心的です。にもかかわらず私たちが生きていく限りにおいて、日々無数の問題について現に決断を下しているし、また下さざるを得ない。純粋に観照者の立場、純粋にテオリアの立場に立てるものは神だけであります。その意味では神だけが完全に良心的であります。

私たちの社会というものは、私たちの無数の行動の網と申しますか、行動の組合せから成り立っております。社会がこうして私たちの行動関連から成り立つ限りにおいて、私たちは行動あるいは非行動を通じて他人に、つまり社会に責任を負っています。その意味では純粋に「見る」立場、ゲーテの言う意味での完全に良心な立場というものは、完全に無責任な立場ということになります。

したがってこの点でも神だけが、完全に無責任でありうるわけであります。認識することと決断することとの矛盾中に生きることが、私たち神でない人間の宿命であります。私たちが人間らしく生きることは、この宿命を積極的に引き受け、その結果に責任を取ることだと思います。この宿命を自覚する必要は行動関連が異常に複雑になった現代においていよいよ痛切になってきたのです。

世のなかには一方では、認識の過程の無限性に目をふさぎ、理論の仮説性を忘れる独断主義者もいれば、またそもそも認識の意味自体を頭から蔑視する肉体的行動主義者がいます。しかし他方その半面では、物事はそう簡単にはイエスかノーかきめられないのだ、もっとよく研究してからでなければなんともいえないという名目の下に、いつも決断を回避することが学者らしい態度だという考え方がかなり強い。

あるいは対立する政治的争点に対して、あれももっとも、これももっとも、逆にそれを裏返しとして、あれもいけない、これもいけないということで、結局具体的な争点に対して明瞭な方向性を打ち出すことを避ける態度をもって、良識的であるとか、不偏不党であるとか考える評論家やジャーナリストもかなりいるようであります。

たびたびゲーテの言葉を引いて恐縮ですが、ゲーテはこういうことをいっています。「自分は公正であることを約束できるけれども、不偏不党であるということは約束できない。」今申しましたような世上いわゆる良識者は対立者に対してフェアであるということを、どっちつかずということと混同しているのではないでしょうか。
「現代政治の思想と行動」丸山真男 P452-454

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