更新情報

【2018年度】
11月14日
PHPを、5.4から7.1にグレードアップした。更新ボタンを押すも、画面の切り替えがうまくいかない。

11月10日
パソコン用とスマホ用の詳細記事左サイドに、記事として公開した「推薦図書」の紹介を行った。記事本文からすでに成果が出ており、昨日・一昨日の両日(たったの2日)でのアマゾンからの手数料が900円ほどになった。みなさん、ありがとう。

「交通事故証明書の甲・乙の見方」(16394)という記事を加筆した。さらに、「当事者順位の決定方法」という公的資料へのアクセスを可能にした。

11月7日
「PTSDの後遺障害認定はたいてい入口で締め出される」(1991)という記事で、PTSDが後遺障害に認定されるための要件(認定がいかに難しいのかをしっていただくために)について、かなり詳しく加筆した。

11月2日
「歩行者用信号が青になってすぐに渡り始めたのに、車に轢かれてしまった高齢者や子供たち」(770)という記事を見返したら、出来が悪く、問題のある記事だった。一部訂正し、さらに最後の章を加えた。

10月31日
「交通事故の目撃者証言はどこまで信頼できるのか」(628)という記事にラインナップの例を加えた。後半部へのつながりがあまりよいともいえないので、後半部については全面的に書き改めるかもしれない。

10月30日
相談者の参考のために、「駐車場内の交通事故の過失割合と判例」(31287)という記事に、判例をふたつ追加した。ついでに訂正・加筆を行った。訂正・加筆は赤字で示した。

「警察提出用の見込み診断書」(20746)という記事に、警察が提出されるのを極度に嫌がる「見込み診断書を遅れて提出する際の裏技」という章を加えた。

10月28日
「交差点の事故か交差点以外の事故かで、過失割合が大きく違ってくる 」(6388)という記事の表題を変更。さらに「複合交差点」等について追加した。

10月25日
「停止待機中だと主張した場合の判例と過失割合」(7410)という記事に相談例を加筆した。

「PTSDの後遺障害認定はたいてい入口で締め出される」(1937)という記事に、DSM5の診断基準と、鑑別診断について加筆した。

10月16日
「第三者機関」としての損害保険調査会社」(5049)に、若干の修正・加筆を行った。

「交通事故で双方の主張が違っていて真偽不明のとき、相手の過失についてはあなたが立証責任を負い、あなたの過失については相手が立証責任を負う」(284)という記事の表題が長すぎるとの指摘があったので、短くした。本文の語句の修正も若干行った。

10月14日
「交通外傷としての遷延性意識障害と後遺障害・賠償問題」(160)という記事があまりアクセスされていないので、表題を「遷延性意識障害と後遺障害・賠償問題」に改めた。若干の加筆を行ったが、いずれ本格的に加筆したいと思う。

「歯の後遺障害」(3641)という記事に、歯を失うと発話上どういう問題が生じるかについて詳しく加筆し、裁判ではどうなっているのかという新たな章を設けて、判例を5つ加えた。

10月9日
本日、「素因減額における若杉試案・渡辺試案」(1380)という記事を見て、素因減額についてのご相談があった。いまいちど見返した結果、若干の語句の修正と、リンクを付けた。

「外傷性の非骨傷性頚髄損(中心性脊髄損傷)のケースでの事故との因果関係および後遺症」(16)という記事に判例を3つ書いた。

10月6日
アクセス数の伸びない記事のテコ入れをした。「「リレーアタック」による車両盗難」(135)という記事に、イモビライザー搭載車についても書き加え、表題も改めた。いずれさらに加筆するつもり。

10月5日
「圧迫骨折と後遺障害」(4723)という記事を加筆した。脊柱の圧迫骨折の後遺障害を確認する際の主治医への質問状を別記事で公開していたが、それを非公開にし、一本にまとめた。

10月1日
「骨粗鬆症による素因減額」(3168)という記事に対し大幅に加筆した(最後の章)。

このところ過去に書いた記事を再読している。「自殺は、どのようにして決めるのか」(2246)という記事を書いていたが、参考にした「法医学書」が1995年発行などいかんせん情報が古い。新法としての「死因・身元調査法」を踏まえていないなど、現状にそぐわない記述があるかもしれないと思った。時間がないため全面的見直しは本日は無理だが、ちょっとだけ手直しをした。

9月30日
「脳梗塞と交通事故との因果関係」(5023)という記事に、「首にカイロプラクティックの施術を受けて、脳梗塞で死亡した例」を加え、さらに、「外傷が原因だと強く示唆されるレベルでないとだめかもしれない」というアイマイな表現を「だめです」と断定表現に変え、さらに解剖や血管造影の必要性を強調するなどの修正を行った。

9月28日
過去に書いた記事だが、(「車両保険は1回使うと3等級ダウンする。2回、3回使うとどうなるか」)(244)という記事で、柳原三佳さんが書いた記事からの引用が一部あったにもかかわらず、引用したことの掲示を忘れているのがわかった。これでは他人の取材内容を引用元なしで自分の知識のように披露するという池上とかいう「大ジャーナリスト」を笑えない。上記記事をたまたま読んでいたら、ぼくの文章でないし、段落の切り方もおかしいため、調べてみたら、引用であることに気づいた。かなりあせった。本日、1年以上経っての訂正である。柳原さん、申し訳ない。もうひとつ、記事に意味不明なところも見つけた。どうも、下書き段階の記事を校閲することなく公開してしまったのが原因だと思う。訂正修正が終わるまで、未公開にすることにした。

9月27日
「後遺障害申請する際に注意すべきこと。後遺障害等級獲得よりも大切なこと」(667)という記事の表題を、「後遺障害における人工骨頭置換術や人工関節置換術の危ない話」に変えてみた。さらに、抗生物資、感染症について加筆した。

9月25日
「交通事故証明書の甲・乙の見方」(15263)という記事を読み返したら、中に意味が分かりづらい等の箇所があったので、わかりやすいように書き改めた。さらに、最近書いた記事「センターラインをオーバーしたのはどっちだ」にリンクを張った。

9月24日
「交通事故における信頼の原則」(3099)という記事に対して質問があったので、それに答えるために、「交通事故捜査と過失の認定」からの引用文を加筆した。

9月23日
「センターラインをオーバーしたのはどっちだ」(9)という記事に、「簡裁事案で注意すること」という章を加筆した。

9月15日
「THE CLASHのサンディニスタ!」(1080)という記事に対して、「戒厳令下チリ潜入記」(ガルシア・マルケス著)からの引用やアジェンデ死の直前の最後のメッセージなどを加筆した。

9月8日
「飲酒運転で免責、すなわち保険金が下りないとき」(2143)という記事に対して、説明が足りないと思ったところに若干の加筆を行った。

8月28日
「偽装事故の手口と、逮捕にいたるまで」(127)が未完成のままだったので、過去に書いた記事から一部引用することで加筆し、完成させた。

8月26日
「交通事故鑑定の世界はニセモノが跋扈する魑魅魍魎の世界ならしい」(187)という記事に対して問い合わせをいただいた。問い合わせの趣旨に同意し、他人が下した評価をそのまま引用していた箇所について、一部削除を行った。

7月14日
「交通事故鑑定の世界はニセモノが跋扈する魑魅魍魎の世界ならしい」(94)に、ニセモノの実例を加筆した。

7月10日
「過失相殺率と過失割合」(288)という記事に、(注)を加筆した。

7月1日
「自損事故によるガードパイプの破損」(1753)という記事に、高速道路上だったらどうなるかという【追記】を加えた。

「ある事故加害者との対話。過失相殺の法理だけでは解決できない問題がある。」(335)という記事に、明治6年、新政府が太政大臣の名で全国に通達した違式詿違条例のことを加筆した。

6月27日
「駐車場内の交通事故の過失割合と判例」(25881)という記事に、「歩行者の事故」の章など、大幅に加筆した。

6月19日
旧記事の表題「「ハンドブック交通事故診療」を読んで・・・」(277)を「リサーチとは何か。「ハンドブック交通事故診療」を読んでの感想」に改めた。内容も大幅に加筆した。

6月16日
「幼児・子供の交通事故と判例」(407)という記事に、「親の責任」という章を加筆した。

「宮尾氏がコケるとみなコケる後遺障害のネット情報」(516)という記事の表題を、「交通事故110番・宮尾氏がコケるとみなコケる後遺障害のネット情報」とした。記事自体も一部加筆した。

6月13日
「信号のある交差点でどちらも青を主張したら、どのようにして解決するか」(16054)という記事に、目撃者証言に関する項目を加筆した。

「交通事故の目撃者証言はどこまで信頼できるのか」(327)という記事に、エリザベス ロフタスの本からの引用を加えた。

「追突か逆突か」(898)という記事に、車の損傷内容で追突か逆突かがわかる具体例を提示するため加筆した。

6月12日
「仕事中の交通事故で、運転手が会社から損害額を全額弁償しろと言われたが・・・」(1927)という記事に、「車の修理代を給与から差し引くことの是非について」を加えた。

6月8日
「道路の欠陥による事故の過失割合」(2416)という記事を「道路の欠陥による事故の過失割合と判例」に表題を改めた。

6月4日
「信号のある交差点でどちらも青を主張したら、どのようにして解決するか」(15830)という記事をわかりやすくするために、500字ほどの加筆を行った。

5月28日
「後遺障害認定上必要な画像検査と、CTなどの検査被曝」という記事(472)に、


からの引用を加えた。

5月27日
以下の本を入手したので、「駐車場内の交通事故の過失割合と判例」(24448)という記事中の、判例を追加し、整理分類中。

「休車損を請求する運送会社の方へ。どちらに重い立証責任があるのかを忘れていないか」という記事(694)に加害者とすべきところを被害者としているような記載ミスがあったので、訂正するとともに、一部加筆した。

5月26日
「大幅速度超過事故の過失割合」(2144)という記事に判例1を追加する。

5月15日
「バス転倒人身事故」(159)という記事の表題を「バス転倒事故と裁判例」に変えてみた。

5月10日
「歯の後遺障害」(2794)という記事に、自賠責の書式である歯科用後遺障害診断書と作成時の注意事項を加えた。

5月3日
「幼児の交通事故と判例」(361)を「幼児・子供の交通事故と判例」に改め、「交通事故学」(石田敏郎)からの引用を加えた。

4月21日
多くの人に自分の書いた記事を読んでもらいたくて始めた当サイト。人命にかかわる記事は特にそうである。が、期待したほどにアクセスが集まらないため、表題を「生活保護申請に同行してわかったこと」(105)から「生活保護申請に同行してわかった水際作戦。申請書を渡さないのは職務放棄である」に変えてみた。

「車と衝突したとき、人はどこまで飛ばされるのか」(413)が工事中のままだったので、追記して完成させた。

4月1日
「交通事故直後の謝罪と示談の効力」(806)という記事の表題に「判例」を加えるとともに、本文に加筆した。

3月31日
「高度な運転技術を身に着けているレーサーほど、交通事故を起こしやすい」という記事に、運転能力と過失の程度に関する弁護士のおかしな見解への批判を加えた。

3月29日
「過失割合調査、双方の主張する事故状況が相違する場合、どうやって解決するのか」という記事に若干の手直しをした。この記事は立証責任に注目してほしさのためにいわゆる叩き台として書いた記事だが、内容に不満があり、つっこみどころがありえると思う。前からその点の手直しのための加筆をしたいと思っていた記事である。今回は、若干の修正にとどめた。「交通事故で双方の主張が違っていて真偽不明のとき、相手の過失についてはあなたが立証責任を負い、あなたの過失については相手が立証責任を負う」という記事を新たに書いたが、この記事は補足のために書いた。

3月27日
「好意同乗と福永試案」(396)という記事の表題を「車の同乗者が事故で死傷したとき、どんな責任を負わされるのか」に改め、若干の加筆を行った。

3月24日
「アメブロは「嫌中嫌韓」か「陰謀論系」のバカばっかりの「オワコン」なのでやめた」という記事に、かつて辺見庸の新刊紹介記事を書いたことがあり、そこで陰謀論を批判した。それを加えた。

「術後感染、たとえば骨髄炎発症による素因競合の問題について(1)」という記事に目次をつけ、参考文献を明示するなど、若干の加筆を行った。

かつて「後遺障害専門家の選び方」という記事を書いたことがある。アクセス数が1日1以下だったため(492)、表題を「後遺障害申請する際に注意すべきこと。後遺障害等級獲得よりも大切なこと」に改めてみた。

「名登山家の遭難死とレーシングドライバーの事故の多さ」という記事が上記とおなじようにアクセス数が少なかったため(362)、表題を「高度な運転技術を身に着けているレーサーほど、交通事故を起こしやすい」に改めてみた。

3月20日
「後遺障害は1度認定されると重ねて認定されないのか」という記事に対して、その後自賠責実務が変更されたことを受け、かんたんな追記をした。当該記事は追記がいくつもあるなどこの記事を書いた本人でさえわかりづらいので(苦笑)、いずれ全面的に書き直したい。

3月19日
「事故被害者と事故加害者の利益が一致するとき」という記事の表題を「事故被害者と事故加害者との示談交渉術。双方の利益が一致することに注意したい」に改め、片目喪失で労働能力喪失期間を10年にけちろうとした具体例を加筆した。

3月18日
「痛みや痺れの後遺障害」という記事の、常時痛について、ほとんどの他サイトが間違った記載をしていたため、その点を重点的に加筆した。

3月17日
「幼児の交通事故と判例」という記事に、欧米での市民や保険会社による交通安全のための自力救済というかゲリラ的活動を紹介する一文を加えた。

3月16日
記事の表題「遷延性意識障害を「意識がない状態」と解説している弁護士サイトが多いけれど・・・」を「交通外傷としての遷延性意識障害と後遺障害・賠償問題」に改めるとともに、加筆した。

3月15日
当サイト最初の記事「最初の投稿」(70)を加筆し、表題も「アメブロは「嫌中嫌韓」か「陰謀論系」のバカばっかりの「オワコン」なのでやめた」に改めた。それに伴い、旧サイトへのリンクを外した。

【感銘を受けた人たちとその言葉】

(小田実)
ひとりでもやる。ひとりでもやめる。

(本多勝一)
日本では、冒険は「無謀」でないときだけ支持されている。だが、「無謀でない冒険」とは形容矛盾であって、冒険は本来「無謀」なものである。100パーセント安全な冒険は、冒険とはいわない。大なり小なりの失敗の可能性があって、なお実行してみること、トライアル=アンド=エラー(試行錯誤)の原則に立つこと、賭けの要素がはいることが冒険である。日本では実行にあたって、ただの1パーセントも失敗の可能性があってはならないのだ。失敗しないための最も確実な方法は、何もしないことである。すこしでも冒険的だったら中止すること。これが、現在のところ独創的仕事に乏しい日本の社会での根本理念となっている。

(西堀栄三郎)
新しいことをやろうと決心する前に、こまごまと調査すればするほど、やめておいた方がいいという結果が出る。 石橋を叩いて安全を確認してから決心しようと思ったら、おそらく永久に石橋は渡れまい。やると決めて、どうしたらできるかを調査せよ。

(宮本常一)
ひとり歩いていて、まったく人手のくわわっていない風景に出あうことがあります。海岸の波のうちあっている所とか、山の中の木のしげっている所とか、または川のほとりなどですが、そういう風景は何となく心をさびしくさせます。しかし、人手のくわわっている風景は、どんなにわずかにくわわっていても、心をあたたかくするものです。海岸の松原、街道のなみ木みちをはじめ、植林された山もまた、なつかしい美しさを持っています。そうした所に見出す一本のみちも、こころをあたためてくれるものです。

そのような風景はよく考えて見ると、この世をすこしでも住みやすくしよう、と努力してつくられたものなのです。自然にくわえた工事というものは、われわれの生活を不利にするためのものは一つもないのです。そこには、おのずから人々のあたたかい心があらわれているのです。・・・しかもそうしたものは、有名な人のした事業はいたってすくないのです。多くは、私たちのように、平凡な人々のしごとだったのです。

(魯迅)
暴君の治下の臣民は、おおむね暴君よりもさらに暴である。暴君の暴政はしばしば暴君治下の臣民の欲望を満たすことができない。・・・暴君の臣民は、暴政が他人の頭上で暴れてくれるのを望むだけだ。自分はおもしろがって眺め、「残酷」を娯楽とし、「他人の苦痛」を見世物として、慰安にするだけだ。自分は「運よく逃れた」のが自慢の種である。

(宇沢弘文)
日本における自動車通行のもっとも特徴的な点を一言にしていえば、歩行者のために存在していた道路に、歩行者の権利を侵害するようなかたちで自動車の通行が許されているという点にある。

(辺見庸)
私の痛み。他の痛み。何人も他の痛みを痛むことはできません。しかしながら痛みの孤独をみとめるだけで終わるのではあまりにもさみしい。痛みを共有することができないという絶望的なほどの孤独をかかえて私たちの生はある。ならば、その孤独にうちのめされながらも、なお他の痛みを共有しようとする不可能性にこそ私は愛の射程を見出すのです。

(ジョージ・オーウェル)
ナショナリストはすべて、過去を改変できるものだと信じている。ときには彼が当然そうなくてはならないと思うとおりの事が起こる幻想の世界にまよいこんで―そこでは、スペインの無敵艦隊が勝ち、1918年のロシア革命は粉砕される―こういう幻想の断片をすこしでも多く、歴史書に持ちこもうとする。

(阿部謹也)
日本の個人は、世間向けの顔や発言と自分の内面の想いを区別してふるまい、そのような関係の中で個人の外面と内面の双方が形成されているのである。いわば個人は、世間との関係の中で生まれているのである。世間は人間形成の世界である限りでかなり曖昧なものであり、その曖昧なものとの関係の中で自己を形成せざるをえない日本の個人は、欧米人からみると、曖昧な存在としてみえるのである。ここに絶対的な神との関係の中で自己を形成することからはじまったヨーロッパの個人との違いがある。わが国には人権という言葉はあるが、その実は言葉だけであって、個々人の真の意味の人権が守られているとは到底いえない状況である。こうした状況も世間という枠の中で許容されてきたのである。

(本田宗一郎)
息子や親せきでないと社長にしないとか、東大出でないといかんとか、企業に関係のない条件で社長を選んでいるところがある。みんなが見ているというのに、それでいいと思っているんですかね。会社は大勢が飯を食うところ、大勢の生命の源泉です。そこを忘れたら会社は潰れますよ。

(近藤誠)
がんもどき概念は、推論をまじえていますから、真実かどうか保証がない、という反論もあるでしょう。しかし、推論せざるをえないのは、本物のがんかどうかもわからない小さなしこりを、臓器も含めてどんどん切除しはじめてしまったからで、がんもどき概念のがわに落ち度があるわけではありません。かりに推論という言葉を使うなら、早期がんが本物のがんであるということは、推論どころか想像にすぎない、と指摘しておきましょう。何しろ、早期がんと診断するや切りまくってきた結果、小さなしこりに人を殺す力があるかどうか確かめられておらず、すべての早期がんが本物のがんであるという主張は、想像による仮説にすぎません。これは推論以前の問題でしょう。

(三上章)
日本文法の構文論はまことに幼稚である。幼稚の原因は一つではないが、中でも最も大きい原因は、土台がゆがんだままなことである。土台、すなわち構文論のイの1条に「文は主語と述語から成る」という虚構が据えてあることである。

(石川三四郎)
あなたたちが、ほとんど権力を奪取しそうになる時、いつもかならず強い方につく連中が、ただ権力にしがみつきたいために、あなたたちの方へなだれこむ。その連中がいないと権力が取れないが、仲間になったもののうちの誰が、そのような連中かは見抜けない。そのような連中によって権力の内部から腐敗が進む。

(イェーリング)
ある国民がみずからの法に注ぎ、みずからの法を貫くための支えとする愛情の力は、その法を得るために費やされた努力と労苦の大きさに比例する、と。国民とその法との最も固い絆をつくり出すのは単なる習慣ではなくて払った犠牲である。

(梅棹忠夫)
老子には「生きがい」のかんがえはないです。生きがいのそもそもの否定から出発しているんだとおもいます。人生の目的化とか、そういうものも全部ないです。目標があってそれに対して努力するという、その努力がそもそもない。むしろ、そういうことは悪だというふうになっている。有用なこと、役にたつことは、つまらぬことだいうことになっている。何かを達成するというようなことは、みんなつまらないことなんだ、というふうになっている。

役にたたないことこそ一番いい生き方なんだ。役にたつことをいかにして拒否していくか、ということですね。これは、わたしもたいへんえらい思想だとおもう。論理的にこれをやぶろうとおもっても、ちょっと歯がたたないですね。人類が生んだ最高の知恵といいますか、2000年も昔に、えらいことをいった人があるものだとおもいます。

(なだいなだ)
自分のものさしを持つようになる人間の方が、気分的には安定するようだね。というのは、平均的な枠の中に自分を押しこめた人間は、つねに他人のものさしに気を使っていなければならないからだ。つまり、はたを、世間体というやつを、気にする。そればかりか平均からはずれた人間は、自分のたよりにしているものさしを、動かしてしまう危険のある人間だから、つまりは、自分をおびやかす存在なのだ。いわば、自分の土台をおびやかす敵なのだね。だから、はげしい敵意を、そうした人間にむける。人は人、自分は自分、と思っているものは、自分に直接被害がおよぶような他人の行為をのぞいて、他人の行動に寛容でいられる。

両方とも、自分を正常と見なしているとしても、内容は、そのようにちがうのだよ。

(中野好夫)
由来ぼくの最も嫌いなものは、善意と純情との二つにつきる。考えてみると、およそ世の中に、善意の善人ほど始末に困るものはないのである。ぼく自身の記憶からいっても、ぼくは善意、純情の善人から、思わぬ迷惑をかけられた苦い経験は数限りなくあるが、聡明な悪人から苦杯を嘗めさせられた覚えは、かえってほとんどないからである。悪人というものは、ぼくにとっては案外始末のよい、付き合い易い人間なのだ。

・・・それにひきかえ、善意、純情の犯す悪ほど困ったものはない。第一に退屈である。さらに最もいけないのは、彼らはただその動機が善意であるというだけの理由で、一切の責任は解除されるものとでも考えているらしい。

(川田順造)
「史」を「ふみ」とも読む感覚からすれば、無文字社会の歴史という問題のたてかたからして、意味のないものにみえるかもしれない。だが、文字を用いなかった、あるいはいまも用いていない社会は世界に数多い。言語は人類に普遍的に用いられているが、文字は少しも普遍的ではない。文字を実際に使う人の数ということも考慮にいれれば、大部分の人が文字を用いなかった社会の方が、人類の歴史の中でははるかに多かったにちがいない。

それらの社会も、「ふみ」を用いる社会と同じ深さの時間をへてきた以上、文字をもたない社会の歴史が問題にされるのは、当然のことである。無文字社会の歴史は、どういう性質をもっているのか、文字に記録された過去をもつ社会と、そうではない社会とで、歴史というものに質のちがいがあるのか、文字記録のあるなしと社会の成員の歴史意識とのあいだには、関連があるのか、さらに、そうした歴史意識のちがい(もしあるならば)と、社会構造やその変革とは、どのような相互作用をもつはずなのかなどの点が、本来の意味での「世界」史の一部として考えられなければならない。

(上岡龍太郎)
はたから見てたら羨ましく見えるんやろうね。自由な時間に好き勝手やってエエ思いしてるように見える、そやから変に嫉妬する連中が出てくる。つまり、見栄えが悪い子供の教育に悪い。何より朝から晩まで働いてる俺の胸糞悪い。

僕ら芸人は良いですよ、末路哀れは覚悟の上、そんなもん畳の上で死ねん、親の死に目にも遭えんと思ってますよ。そやけど人生で身動きとれん様になった人に救いの手を差伸べんと、変に迫害する連中が居るのには呆れる、それも政治家。

政治家とか言う連中は何の為に存在するのか分ってない奴が多すぎる。政治家で強いモンの味方する奴なんか最低ですよ、強い奴はほっといても生きていけるんやから。そうじゃなく、弱いモンの味方せえよ。そやなかったらお前らの存在意義は何なんや?ちゅう話でね。

ページ上部へ戻る