PTSD理解のための、戦争における「人殺し」の心理学

今月読んだ本。

PTSDはベトナム戦争からの帰還兵から始まったとはよくいわれることだが、最初にそのことを活字で知ったとき、それ以前の、たとえば第一次大戦や第二次大戦ではPTSDにどうしてならなかったのか。そんな疑問を抱いた。PTSDの権威書であるハーマンの「心的外傷と回復」をふくめPTSDに関する専門書に何冊か当たってみたが、どこにも説明されていなかった。が、その疑問に見事に答えてくれたのが、今回紹介する「戦争における「人殺し」の心理学」(デーヴ・グロスマン)である。

この本は、戦闘行為中の殺人に対する兵士の心理描写で埋め尽くされている。この本によると、実際に敵と対峙したときに何%の兵士が敵に向けて銃を撃っているのか。これを「発砲率」というのだが、この本によれば、南北戦争から第二次大戦までは、ほとんど変わらず15~20%程度だったということである。日本軍の玉砕突撃に対峙したときも同じなのだそうな。本書ではこう書かれている。

第二次大戦中の戦闘では、アメリカのライフル銃兵はわずか15から20%しか敵に向かって発砲していない。発砲しようとしない兵士たちは、逃げも隠れもしていない。(多くの場合、戦友を救出する、武器弾薬を運ぶ、伝令を務めるといった、発砲するより危険の大きい仕事を進んで行っている)。ただ、発砲しようとしないだけなのだ。日本軍の捨て身の集団突撃にくりかえし直面したときでさえ、かれらは発砲しなかった。(P43)

 
やっぱり躊躇してしまうんだね。お互い、家族がいるだろうし、恋人もいるかもしれない。あるいは敵兵の顔におのれ自身が投影されるのかもしれない。そんなことを一瞬でも考えると、躊躇してしまうのだろう。近距離での白兵戦だと相手の顔がよく見えるまで近づくわけだから、相手に撃ち殺されるかもしれないのに、それでもやっぱり撃てない。ちょっとずらす。あるいは空にむけて撃つ。そういうことが起きる。それも頻繁にである。お互い、人間だからである。人間として尊重されるべきだ。そういう極限のところにおいてもヒューマニティを感じる。そこがすごく救われる。

軍隊とは、祖国防衛とか愛国心だとかの美名のもとに組織され、敵たる相手を殺すための訓練と実戦が行われるのを常とするが、そんな美辞麗句だけでは敵に対峙できない。敵にヒューマニティを感じたらだめなのである。要は相手を躊躇なく殺さなければいけないのである。それも効率的であればあるほどよろしい。ところが、「発砲率」が15~20%程度では軍隊として機能しているとはいいがたい。米軍がそのことに気づいたのが1946年である。これではまずい。「発砲率」を100%に近付けるために、すなわち個々の兵士を殺人マシーンになるよう洗脳や訓練を行った。そういうことがこの本に書かれている。

ブックレビューにはこうある。

本来、人間には、同類を殺すことには強烈な抵抗感がある。それを、兵士として、人間を殺す場としての戦場に送りだすとはどういうことなのか。どのように、殺人に慣れされていくことができるのか。そのためにはいかなる心身の訓練が必要になるのか。心理学者にして歴史学者、そして軍人でもあった著者が、戦場というリアルな現場の視線から人間の暗部をえぐり、兵士の立場から答える。米国ウエスト・ポイント陸軍士官学校や同空軍軍士官学校の教科書として使用されている戦慄の研究書。

 
その結果、朝鮮戦争においては発砲率55%、ベトナム戦争においては、ついに95%に達した。ところが、そういう訓練を受けた殺人マシーンだった帰還兵が帰米後に精神に変調をきたした。すなわちPTSD患者が続出したのだ。中には損害賠償目的の便乗請求もあったようだが(「正常を救え」アレン・フランセス)、アメリカで大きく社会問題化した。そのため現在は、「訓練」を見直さざる得なくなり、「発砲率」が24%ていどに低減しているらしい。

この本、すなわち「戦争における「人殺し」の心理学」を知ったのは、PTSDの第一人者である中井久夫氏の文章を読んでいたときである。PTSDに関連して、あるいは理解するための書籍として紹介されていた。それがきっかけだった。ところで、中井氏は、裁判官や弁護士のPTSDへの無理解を嘆いている文章も別のところで書いている。→「日本社会における外傷性ストレス」論文。最初の設問である「PTSDはベトナム戦争からの帰還兵からなぜ始まったのか」。さらに詳しいことに関心のある方は同著に直接目を通してください。用事がはいったためいつもの尻切れトンボになってしまった。いずれ追記するかもしれない。

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知識とは中立なものであること

ここで注意してほしいのは、情報の正確さもさることながら、その情報(知識)そのものが中立なことです。

昔、東大卒が多い自民党が間違えるはずがないと豪語している自民党支持者に会ったことがあります。ぼくは苦笑するしかありませんでした。たしかに東大卒は勉強をいっぱいしているわけだから、その知識量も多くかつ正確だといえるかもしれません。ただ、知識それ自体はあくまで中立なものであり、どちらにも役に立つ武器なのです。したがって、その正確でたくさんの知識をどちらの側に使うかにある。わかりやすいたとえ話をしてみましょう。

知識は刀という武器と同じ


その昔、武士という職業が存在しました。この武士は帯刀を許された職業のことであり、刀の専門家です。殿様を頂点にして、殿様に雇用され、殿様を守るために武器である刀の技術を日夜みがいていた。

この武器である刀自体は殿様を守るためにも使えるし、農民に加勢して殿様に刃向かうためにも使えます。しかし、悲しいかな、現実は殿様を守るために使われた例が圧倒的に多く、農民に加勢するために使われた例など不幸にしてきわめて少なかった。ごく稀に後者のような武士が現れますが、こういう武士こそ庶民にとっての英雄であり、「七人の侍」はまさにそのようなタイプの武士たちでした。

利益が一致しているか相反しているかが重要

したがって、問題はその使い手自身にあります。使い手がどちらの側に立つかで知識もそれぞれの側の武器になる。そして、その使い手がどちらの側に立つかは双方の利益が一致するか相反するかでふつうは決まってきます。

この、肝心要のことを説明したサイトが皆無といっていいほどにみあたらないのは不思議なことです(というか、あえて否定しているサイトさえいくらでもみつかるくらいです)。

記事を読んでいただければたちどころにわかることですが、当事務所は「立場」を鮮明にしております。あえて鮮明にしているのは、人間や社会に対する見方は、その人自身の立場から自由にはならないからです。中立を装うことは考察を浅くし、論旨を不明確にし、自己を無責任な立場に置くことになる。「立場」のない「立場」などありようがない。当事務所の立場は、ぼく自身が社会的弱者であるため、弱者の立場に徹することです。ぼくのような弱虫は「七人の侍」のようには決してなれないけれど、せめてその心意気だけでも真似して、社会的強者に阿らないようにしたい。そういう気持ちで当サイトをたちあげました。丸山真男のことばを最後に引用しておきます。

丸山真男から

ゲーテは「行動者は常に非良心的である」といっておりますが、私たちが観照者、テオリア(見る)の立場に立つ限り、この言葉には永遠の真実があると思います。つまり完全にわかっていないものをわかったとして行動するという意味でも、また対立する立場の双方に得点と失点があるのに、決断として一方に与するという意味でも、非良心的です。にもかかわらず私たちが生きていく限りにおいて、日々無数の問題について現に決断を下しているし、また下さざるを得ない。純粋に観照者の立場、純粋にテオリアの立場に立てるものは神だけであります。その意味では神だけが完全に良心的であります。

私たちの社会というものは、私たちの無数の行動の網と申しますか、行動の組合せから成り立っております。社会がこうして私たちの行動関連から成り立つ限りにおいて、私たちは行動あるいは非行動を通じて他人に、つまり社会に責任を負っています。その意味では純粋に「見る」立場、ゲーテの言う意味での完全に良心な立場というものは、完全に無責任な立場ということになります。

したがってこの点でも神だけが、完全に無責任でありうるわけであります。認識することと決断することとの矛盾中に生きることが、私たち神でない人間の宿命であります。私たちが人間らしく生きることは、この宿命を積極的に引き受け、その結果に責任を取ることだと思います。この宿命を自覚する必要は行動関連が異常に複雑になった現代においていよいよ痛切になってきたのです。

世のなかには一方では、認識の過程の無限性に目をふさぎ、理論の仮説性を忘れる独断主義者もいれば、またそもそも認識の意味自体を頭から蔑視する肉体的行動主義者がいます。しかし他方その半面では、物事はそう簡単にはイエスかノーかきめられないのだ、もっとよく研究してからでなければなんともいえないという名目の下に、いつも決断を回避することが学者らしい態度だという考え方がかなり強い。

あるいは対立する政治的争点に対して、あれももっとも、これももっとも、逆にそれを裏返しとして、あれもいけない、これもいけないということで、結局具体的な争点に対して明瞭な方向性を打ち出すことを避ける態度をもって、良識的であるとか、不偏不党であるとか考える評論家やジャーナリストもかなりいるようであります。

たびたびゲーテの言葉を引いて恐縮ですが、ゲーテはこういうことをいっています。「自分は公正であることを約束できるけれども、不偏不党であるということは約束できない。」今申しましたような世上いわゆる良識者は対立者に対してフェアであるということを、どっちつかずということと混同しているのではないでしょうか。
「現代政治の思想と行動」丸山真男 P452-454

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