車上荒らし裁判での勝訴と敗訴

保険金詐欺事件で一審勝訴、二審敗訴

以前あった裁判である。
 

大阪地裁、控訴期限誤る 1日早く締め切り却下
2014年12月24日13時03分 朝日新聞デジタル版

大阪地裁が民事訴訟で敗訴した被告の判決文の受領日を誤ったため、被告による期限内の正当な控訴を大阪高裁が「締め切り日が1日過ぎた」として却下していたことがわかった。被告の上告を受け、ミスの可能性に気づいた最高裁から審理を差し戻された高裁は先月、「控訴は有効だった」と判断。被告の逆転勝訴判決を言い渡した。

訴訟の原告は大阪府内の男性、被告は損害保険会社(東京)。差し戻し後の高裁判決によると、地裁判決は2011年3月8日、車上荒らしにあったとして保険金の支払いを求めた男性の訴えを認め、約430万円の支払いを命じた。その際、地裁は損保会社の代理人弁護士が判決当日の「3月8日」に判決文を受け取ったとする記録を作った。

だが、弁護士と損保会社が受領したのは翌日の「3月9日」だった。損保会社は控訴期間(14日間)の最終日の「3月23日」に控訴したが、高裁は地裁の記録を踏まえ、期限を「3月22日」と判断。締め切りを1日過ぎた、として控訴を認めなかった。

差し戻し後の高裁判決は「地裁書記官らのチェックが不十分だった」と指摘。車上荒らしについては「男性の自作自演だった」と認定し、損保会社を敗訴とした地裁判決を取り消した。

小佐田潔・大阪地裁所長は「ご迷惑をおかけして遺憾。指導を徹底したい」とする談話を出した。

一審と二審の判断を分けたのは何か

朝日新聞がこの事件を取りあげた理由は、「控訴期限を誤った」からである。ぼくが取りあげたのは、1審では車両保険請求者である原告が勝訴していたのに、2審では「自作自演」と評価されて敗訴してしまったからである。事件の詳細についてはこれ以上のことは何もわからないが、1審が「誤審」するほど評価が「微妙な」事件だったのだろう。

それにしても、車上荒らしで430万円?とはなんともすごい額である。キーシリンダーとかが被害にあい、カーナビなどの車載物が盗まれても、被害総額はせいぜい数十万円程度なのがふつうだが、この事件の被害額が430万円にもなるのはどうしてだろう。車内に消火器でもぶちまかれたのだろうか。シロウト目には、掃除すれば元に戻るようにも思うのだが、室内を通る配線や、ワイヤーハーネス、コンピューター関係など、すべてを交換しないと、いつなんどき止まるかわからない可能性があっての全損要求だったのかもしれない。

この記事のように、前審の判断がくつがえる車上荒らしや車両盗難事件は、ちょっとした評価の違い、ボタンの掛け違いで、こんなふうに結論がまったく異なることがよく起こる。

偶然が重なれば必然になる

刑事事件と民事事件の端的な違いは、極論すれば、刑事だと「疑わしきは無罪」、民事だと「疑わしきは有罪(敗訴)」である。だから、損保は、保険請求者の「疑わしい事実」を見つけるための調査をする。「疑わしい事実」がひとつやふたつではただの偶然だ。しかし「偶然が重なれば必然になる」と、松本清張がなにかの小説で書いていて、うまいこと言うなあと思った。そういう疑わしい事実をいくつも見つけてくるのが、ぼくら調査員の仕事だ。

人物評価の恐ろしさ

裁判になれば、「疑わしい事実」の評価の中に、請求者の「人物評価」も加わる。裁判官に「こいつ、怪しい奴だ」と思われたら、十中八九、もうだめだろう。だから、裁判官の前では、あくまで紳士的に、穏やかに接しなければいけない。大声をあげるとか、暴言を吐くなんてもってのほかだ。ぼくに言わせれば、「人物評価」こそが、その他の「疑わしい事実」の評価よりも大きく影響するようにも思える。裁判官にどのような人物に映るのかが決定的なようにさえ思えるのだ。よく白紙の状態で考えるとかいうけれど、「言うは易く行うは難し」。果たしてそんなことができるのだろうか。「われわれは物事をありのままに見ない。自分の見たいように見る」という有名な格言もある。

人が自分の先入観から逃れるのはむずかしい

調査の段階で、意識はしていないものの、常に「人物評価」をしているものだ。その結果、「疑わしい事実」が同じ灰色でも、「黒に近い灰色」になるのか、「白に近い灰色」になるのかを決定してしまうように思う。一度怪しい奴だと思われたら、やることなすこと、何でもかんでも怪しく見えてしまう。これが、保険金詐欺調査が陥りやすい陥穽なのだ。人が自分の先入観から逃れるのはむずかしい。自分は白紙の状態で見ることができると思っている人は、そのことになかなか気づかない。だったら、その事実からぼくは出発したいと思う。自分の眼の曇りがどんなものなのかを意識することのほうが大切だ。

10のうちの8、9はやったというのは比喩として成立するが、事実としては成立しない

今回の裁判のように、1審と2審の評価が真っ向から対立するとき、本当は1審の判断が正しいということだって当然ありえるだろう。ぼく自身がこれまでにやってきた調査だって、そうだったかもしれない。自分では「こいつはやっている」と確信しても、100%正しい判断の上での「確信」だったわけではない。民事は真理を求めるものでなく、争いごとの解決を求めるものだから、「100%正しくなくても、10中8か9正しければいい」と言われている(注1)。「10のうちの8か9正しい」ということは、10のうちの1か2間違っているという事実をつい忘れてしまいがちだし、そのうち、10のうちの1、2は間違えても仕方ないとなりかねない。

保険金詐欺をやったかどうかは、本来は、やったかやらなかったか、すなわち、オールオアナッシング、100かゼロかである。10のうちの8、9はやったというのは比喩として成立するかもしれないが、事実としては成立しない。事実として成立しないものを無理に民事では成立させるわけだから、そこにはどうしても無理が生じる。10のうちの1か2は、やってもいないのに、「やったこと」にされるわけだから。

(注1)
林屋礼二「新民事訴訟法概要」(P298)によれば、

自然科学的な証明は、1点の疑いも残さずに、それが真実であることをあきらかにするものであるから、ここでは、なんども実験が繰り返されて、真実が追求されていく。これに対して、裁判は、もちろん真実の追求をめざすが、1つの訴訟という手続のわくのなかで、相当の期限内に終結される必要があるから、そこでの証明を自然科学の証明と同じレベルで考えることはできない。ここから、裁判における証明は、真実であることの高度の蓋然性があることで、満足しなければならない。

そこで、自然科学における証明は真実の認識を目標とする論理的証明であるが、これに対して、裁判における証明は、真実の蓋然性の認識を目標とする歴史的証明でたりるといわれている。

この点から、右の確信とは、裁判官が10のうちの10まで存在したと信ずることを必要とするものではなくて、10のうちの8か9まで存在したと信じうることでたりるものとなる。その判定は、通常人が疑いを差しはさまない程度において、裁判官が真実であるとの確信をもちうるものであればよいとされている。

 

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です

このサイトはスパムを低減するために Akismet を使っています。コメントデータの処理方法の詳細はこちらをご覧ください