中国一険しい山・華山にハイキング気分で来て、ぼくが「長空棧道」の絶壁にへばりつき思ったこと

中国人相談者第1号

先ほど、中国人の方から電話の事故相談があったばかりである。中国人からの相談は今回が初めてであった。記念すべき第1号である。私は渉外事件として中国関係の記事を書いていたこともあり、かつて中国に留学していたことによる懐かしさも手伝って、中国人からの相談は大歓迎である。

ところで、つい最近の記事で、「アメブロをやめたわけ」に関する記事を書いた。やめた大きな理由が、アメブロに「嫌中嫌韓」「陰謀厨」のサイトが巣窟を成していることをその撤退理由のひとつとして挙げた。そんなバカばっかり集まっているアメブロに失望したから撤退したのである。その記事でアメブロの「悪口」をいっぱい書いたから、いつ旧サイトがなくなってもおかしくない。まだ、記事の移転作業が完全に終わっているわけでない。・・・ということで、移転作業を急ピッチで行わなければいけない。とりあえずは、私が気に入っている記事のひとつをこちらに移転することにした。下がその記事である。

崋山にハイキング気分で

天安門事件の起こる前年の1988年、夏。私は知り合いのパナマ系アメリカ人から、ご来光を眺めにハイキングでも行かないかと軽いノリで誘われ、軽いノリで承諾してしまった。このハイキングに参加したのは日本人である私と、中国人3人、そしてアメリカ人3人の総勢7人だった。西安駅に早朝集合し、これからどこへ行くんだと聞いたら、華山だとそのとき初めてわかった。ちなみに、西安市のある陝西省の位置はここである。崋山は近い。

老子のことを思い出した

華山といえば、その当時は道教の聖地のひとつくらいしか私には予備知識がなかった。道中、道教の開祖といわれる老子について、梅棹忠夫が興味深い指摘をしていたのを思い出した。

梅棹忠夫によれば、

老子には「生きがい」のかんがえはないです。生きがいのそもそもの否定から出発しているんだとおもいます。人生の目的化とか、そういうものも全部ないです。目標があってそれに対して努力するという、その努力がそもそもない。むしろ、そういうことは悪だというふうになっている。有用なこと、役にたつことは、つまらぬことだいうことになっている。何かを達成するというようなことは、みんなつまらないことなんだ、というふうになっている。

役にたたないことこそ一番いい生き方なんだ。役にたつことをいかにして拒否していくか、ということですね。これは、わたしもたいへんえらい思想だとおもう。論理的にこれをやぶろうとおもっても、ちょっと歯がたたないですね。人類が生んだ最高の知恵といいますか、2000年も昔に、えらいことをいった人があるものだとおもいます。
梅棹忠夫著作集 (第12巻) 人生と学問の中の「わたしの生きがい論」から

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上記の全部を思い出したわけじゃもちろんない。このなかの一節である「役に立たないことが最高の人生なんだ」ってところは、孔子の儒教精神である「人生とはかくあるべきだ」「物事はかくあるべきだ」みたいな、保険会社が持ってくる、30歳になったら何を達成し、40歳になったらこうあるべきで、50歳になったらこうしろと図入りで図々しく説明している保険設計書みたいな、規範だらけの生き方がごく当然と思われている日本で、もし老子のようなことを言ったら頭がおかしくなったじゃないのかと思われるにきまっているにちがいない。しかし、こういう生き方、考え方もありうるなあと私は密かに老子的処世術にあこがれていた。

その老子が最晩年に過ごしたのかもしれない華山に今向かっているんだと思うと、私はなにほどかの感化を受けられるかもしれないと、妙な期待感で胸が高鳴っていた。

老子の来歴について

ここで、老子の来歴について、小川環樹訳の「老子」を使って簡単に説明したい。

老子の伝記についての最も信頼すべき資料は、司馬遷の「史記」老子伝にある。その要点だけを次にしるそう。

「老子は楚の苦県の人。名は耳。字は李氏。周の蔵室を管理した史官であった」。これによると老子が生まれたのは苦県、現在の河南省鹿邑県の東、安微省との境に近いところになる。蔵室とは宮廷の図書館だという。ここの周とは、現在の洛陽市(河南省)をさす。

「老子は道と徳を修めた。その学説は自己をかくし無名でいることを要務とする。周の都に長く住んだが、周の国力の衰えを見て、やがて立ち去り関まで来た。そのとき関所の監督官であった伊喜がいった。『あなたはこれから隠者になられるのでしょう。むりとは思いますが、私のために書物を書いてください』。そのとき、老子はじめて上下二篇の書を著し、「道」と「徳」の意義を述べること五千余言。そして立ち去り、どこで死んだか知るものはない」。関はおそらく函谷関。とすれば、老子はその西方、今の陝西省のどこかまで行ったことになる。
「老子」(中公文庫P144~145)

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世の中の役に立たないことに徹すること

老子の思想というのは、私なりの勝手な自己流解釈なんだけれども、人の役に立つことを一切拒否することにつきる。世のため、人のためってよく言われているが、そんなのはもうまっぴらごめんだ。そもそも、世の中の役に立つってなんなんだ。世のため、人のためって具体的に言うとどういうことなんだ。老子は、天から正しい、疑いの差し挟むことさえはばかれるそういう不文律について切り込み、疑問を呈し、相対化しようとする。世の中に絶対的なものや、絶対的な価値観など存在せず、すべては相対的であると考える。そのように考えた人は老子だけではないだろう。だが、老子の老子たる真骨頂はそれからあとにあるのだ。

このような絶対的な価値観、道徳観、あるいは美的価値観でさえけっきょくのところ、その時代に支配的な価値観によって決まる。集団なり組織なり国家なりが、世のため、人のためだと言い出すと、その構成員たる個人はその影響がさけられなくなる。それは個人の価値観を規制することにつながり、大義の前には私情は許されないということになりやすい。果たしてそれで庶民は幸福なのか。歴史を通観するとき、「人のため」「世のため」はけっきょくのところ庶民を苦しめることが多かったのでなかったのか。老子はそうした現実に向き合い、そこから逃れるためには「人の役に立つことを拒否しろ」と言ったのだと思う。老子の考えは、それほどの振り幅をもつすごい思想なのだと私は思う。

老子と崋山の関係

ところで、小川環樹訳の「老子」によると、老子は最晩年に、函谷関を離れるとき、牛に乗って、西方に向かったとされている。そのときの図がこれで、下のモニュメントも牛に乗った老子だ。老子が最晩年にすごしたとされる「西方のどこか」については、今の陝西省のどこかだと言われている。

となると、華山はその有力候補地のひとつってことになるだろう。事実、そのような説が存在する。実際に私が華山に向かったときにそのふもとに下のようなモニュメントも存在した。下のモニュメントはそのときに私が撮影したものでなくて、ネットで探したものだ。たしかこんなモニュメントが、華山に向かう道中のど真ん中に、大きなのがどっかり鎮座していた。

崋山とは?

ウィキペディアの「華山」の解説では、

最高峰となる南峰の標高は2160m。花崗岩の岩場を削って、無数の石段が作られており、一部には断崖絶壁の上に作られた20cmほどしかない足場や桟道を通って行かねばならない場所があり、宗教聖地として、格段の険しい山として知られる。

 
これが華山の全景である。

 
ふもとは幅3メールほどもある日本にもあるようなふつうの山道だったから、この調子なら私でもラクに行けると最初は思っていた。ところが、途中からこのような急傾斜の石段が延々と続くことになる。

 
ついにはこんな断崖絶壁のような急階段になった。

にわかエスペランティスト

私の同行者であるパナマ系アメリカ人と中国系アメリカ人は私とは同じ大学の2人とも顔見知りの留学生で、ほとんど毎日のように会っていた。パナマ系アメリカ人の彼女は新進気鋭の小説家で、当時すでに本も2冊出しており、キュートでかわいくてまるで天使のような声の持ち主だ。中国系アメリカ人は祖父母が香港人で、大学を休学し留学中だったが、そのくせ私よりも年齢がいっていて30代の男だ。中国人のフィアンセもいて、とにかくバカがつくくらい明るい男だ。おとなしい私と会うと「ハーイ、〇×、どうした、元気か」が挨拶言葉になっていた。もう1人の白人アメリカ人男性はこのとき初めて会った人で、登山好きのエスペランティストで、中国の大学で英語の教師をしていた。私もエスペラントを習ったことがあると自己紹介すると、おう、そうかと驚き、同志よという具合になって、たぶんエスペラントで何かをまくし立てた。が、何言っているのかさっぱりわかんなかった。私のエスペラントは「1週間でできるエスペラント講座」に参加しただけのにわかエスペラントだったからである。これはつい言いそびれた。

【中国の書店で入手したエスペラントの入門書。中国はエスペラントを学んでいる人が多い】

中国人の3人は、いずれもこのアメリカ人の生徒だという。そのうちの1人の実家が華山のふもとにあり、午前中にそちらに寄って、焼きうどんや餃子で腹ごしらえはすませていた。みんな、私なんかよりもよほど健脚で、とくにエスペランチストは先へ先へと行ってしまう。私は最後尾で、ついていくのが精一杯だった。もうどうにでもしてくれという気持ちだった。

長空棧道で、来たことを心底後悔する

石段に戻る。日本の神社にあるような石段をさらに急角度にしたのが、延々とつづくのである。この調子で頂上までえんえんと続くのか思ったら、中国一険しい山といわれているだけあって、それだけですまなかった。これが世にも有名な「長空棧道」。私はこの絶壁にへばりついて何を思ったか。いや、何も思わなかった。下を見ると目がくらみそうだったので、ただただ一心で壁にしがみついていた。高いところが苦手の私は、来たことを後悔していた。

 

 

「長空棧道」からの年間落下者は20人ほどらしい

この「長空棧道」から年に20人ほど落下するのだという。落下防止のためのハーネスを借りることが可能なのだから、それをつけていれば落下するはずはないのだが、山登りに自信のある奴に決まって落下するらしく、私のような小心者は落下しないと聞いた。自信があるので、ハーネスをつけなかったため、突然の突風などで落下するのか。あるいは人命が羽毛よりも軽いと言われる中国のことだ。通路の底板が抜けるのか。でも、みんな平気な顔してこの「長空棧道」に挑んでいた。中国人女性のこの勇ましい画像。すごいなあ。私にはとてもこんな余裕はなかった。

【ハーネス】

現在の崋山はロープウェイがあるらしい

私が行った1988年当時はロープウェイがまだなくて、頂上まですべて自力だった。1990年からこのようなロープウェイができたようで、ふもとから頂上近くまで運行されているそうだ。


 
それと、現在は華山登りに料金が取られるらしく、180元くらい。日本円にするといくらになるのかわからないが、私がいた当時で換算すると4000円くらいになりそうだ。チョモランマ(エベレスト)の入山料は200数十万円らしいからそれと比べれば破格に安いけれども、貧乏旅行をしていた当時の私なら、入山をやめていたかもしれない。また、今だと登山する際に必ず保険加入しないといけないらしい。私のころは入山料も保険もなかった。

お前の勇姿はないのかって。なにしろハイキング気分でついていって、はぐれないことで頭がいっぱいだった。だから、勇姿なんてないなあ。撮影どころじゃなかった。来たのを後悔していたくらいだから。それに、だいいち、私はビジュアル的に難点があるのでそこが問題だ。今はさえないただのおっさんというか「老体」だし。ご容赦を。

他に、頂上付近でのご来光の話とか、頂上に達したときにあまりの寒さで悪寒がしてパナマ系アメリカン人の女の子と抱き合って暖をとった話なんかもあるんだけれども、モテナイ君らにやっかまれるのもイヤだから、これくらいにしておこう。
(なお、掲載した画像はネットで見つけた画像がほとんどです)

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