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当事務所が扱う相談内容

1⃣後遺障害案件
2⃣事故状況の確認案件

このふたつである。

×保険金詐欺案件
×工学鑑定案件

このふたつは扱っていない。

問い合わせは、後遺障害か事故状況に関するものが圧倒的に多い。ときに、保険金詐欺に疑われて困っているという相談や、工学的知識と経験を要する交通事故鑑定に関する問い合わせもいただく。意外なのは、休車損害の記事がコピーされまくりなのに、その方面の相談をこれまでに1度もいただいたことがないことだ。

これらのうち、当事務所が扱っているのは、後遺障害および事故状況に関する相談である。保険金詐欺事案は扱っていない。休車損についてはあまりに煩雑になりそうなので、メールや電話では無理で、面談が必要になる。交通事故鑑定については、ぼくらにはその方面の知識も経験もほとんどないから、これは「ないものねだり」である。

法律のむずかしい話についてはぼくには無理かもしれないが、当サイトの趣旨に賛同いただいている弁護士がおられるのでかまわない。なお、記事で書いてあることについても質問は大いに歓迎する。が、記事ではっきり書いてあることなのに、それでも不安なのか確認のための相談をいただくことがある。そういう方の質問には一切お返事したくないので、ご注意ください。以下、個別の注意点を述べたい。

事故状況に関する相談

相談者の氏名・住所を明かす必要はとくにない。仮名でかまわない。が、事故証明書記載の事故現場を必ず明記してほしい。それと事故状況についてもなるべく詳しく説明してほしい。本当は事故現場を訪問し調査したい相談も多い。が、遠方だとそういうわけにもいかない。せめてgoogleのmapで最低限の確認だけでもしておきたい。そのために、事故現場がどこなのかは必須である。明記していないものについては一切回答しない。

それ以外にも、事故発生時刻、天候、事故証明書の甲か乙か、事故種別についても教えてほしい。事故状況は絵で再現できるくらいに説明してほしいし、双方の破損部位等も教えてほしい。もし可能なら、事故状況説明図を書いていただくとわかりやすい。

後遺障害の相談

口頭やメールで説明していただくだけでなく、診断書などの医学資料をご用意していただきたい。一回目の相談は口頭等だけでかまわないが、2回目からは上記資料を準備していただきたい。客観的資料がないと間違いが混入しやすいからである。また、時系列で説明していただくと、誤解の可能性が少なくなる。

なお、相談者の中には資料を旧事務所の所在地(現在は削除)へ勝手に郵送される方もおられたが、まずはその前にご一報いただきたい。それと原本は自分で保管され、コピーのほうを送ってほしい。原本を送られると紛失の可能性もあるし、相談者が必要になったときまた送り返さないといけなくなるなど、当方がコピー作業を余儀なくされることがある。ときに数百枚とかになると、その作業だけでも大変である。おカネをいただいているのならそういう作業も苦痛に感じないのかもしれないけれど、ボランティアのぼくにとってはたとえばコピー作業に2、3時間かけるのはただただ苦痛なのである。こういうことが最近いくつか重なったので、注意してほしい。

また、医学資料や判例文の照会をいただくことがある。ぼくはそのような要望に対してはこれまですべて対応してきた。メールで可能なものについては、比較的かんたんなのでメールで対応していることにしているし(それでも資料探しから始まってパソコンに資料を取り込む作業が加わるなどするから1、2時間は少なくとも要する)、それが不可能なばあいは郵送で対応することにしている。後者についてはこれまでは郵送料はいただいたことがなかった。

が、「ありがとう」の一言も言ってくれない人が中にいるのだ。ほかにも無料相談するところがいっぱいあるため、当たり前のように思われているのかもしれないが、そこまでタダでやってくれるところはぼくくらいじゃないだろうか。ほかはすべて生計を立てるためにやっているのだから、たとえ無料相談が可能だったとしても、顧客の選別目的で無料にしているところが多いのが実情だろう。当たり前のように思われても困るのだ。今後は実費分の請求も致し方ないと考えている。ボランティアにおんぶにだっこではダメである。

ところで後遺障害については注意しておきたいことがある。以下の図は料率算定機構から引っぱってきた資料だが、ここ最近の後遺障害認定件数と認定率である。

 
後遺障害専門家が大幅に増えているため、後遺障害認定のための申請件数が増えている。が、肝心の認定件数が減り、認定率が落ちているのだ。理由は、真偽は不明だが、後遺障害を認定する機関である料率算定機構の認定が厳しくなったためと言われていることがひとつ。もう一つが、こちらは確実にいえることだが、経験もあまりなく、知識もあまりない自称後遺障害専門家に依頼することが多くなったためである。自称後遺障害専門家にひっかかって、本来ならとれる等級が低等級になったり、非該当にされてしまう。

ところで、後遺障害がわかるためにはどれくらいの経験が必要だろうか。保険調査員は事故状況専門の人もいれば、医療調査専門の人もいる。あるいは事故状況だけでなく、休業損害、休車損害、モラル、後遺障害などだいたいすべてにかかわる人もいる。いわゆる何でも屋は人員の少ない地方の支社レベルに多い。当事務所の調査員ふたりはどれにもかかわる何でも屋だった。

ところで、後遺障害などの医療調査についていえば、最初の通信教育から始まって、社内の講習や社外の講習に参加し、多くの実地も踏む。後遺障害にある程度詳しくなるためには5年は必要であると言われていた。ぼくの考えでは5年では素人に「毛」が生えた程度、少なくとも10年必要と考えている。弁護士を選任する際にも経験年数は重要である。5年程度ならやめといたほうがいい。そのことを記事にしたこともある。

なお、当事務所でやれることは限られているし、やりたくないこともある。中にはとても通りそうもない相談をいただくこともある。その場合は、その旨をはっきり言いたい。

当事務所について

ネット相談が増えた

以前はまったくと言っていいほどなかったネット経由の相談。最近はこれが多くなった。「多くなった」といっても、1週間に1件か2件のペースだから、なんだそれぽっちかと言われそうだ。1日のアクセス数が1500を誇る当サイトなら、本来なら相談件数がもっとあってもいいはずだ。が、これはやむをえないし、今のところ特に不満があるわけでもない。

相談が少ない理由はわかっている。第一に匿名サイトだということ。第二に、ちゃんとした資格がない者が運営していること(かつて保険調査員時代は資格なんて必要なかった。交通事故被害者の側に立とうとするととたんに資格ガ・資格ガと言われる不思議)。この2点ではないだろうか。つまりは、正体不明の、ハタからみると実に怪しげなサイトなのである(と、相談者からはっきり言われたことが何度かある。「実名にどうしてしないのか」と質問されたことがあるので、そのことについて答えるための記事をこちらで書いたことがある)。

それでも、相談していただける方がおられるのだから、たいへんうれしい。感謝している。外ヅラはいたって怪しげだけれど、中身は大まじめであることを理解していただけたからだと思っている。他人にお任せでなく、自分でも考えようとされている事故被害者の方の相談が多い。

なぜ匿名なのか

リアルの世界では当サイトのことを特に秘密にしているわけではない。ぼくの周辺の人は、たいていこのサイトの存在を知っている。ぼくは隠すことなく、「こういうサイトをやっているので見てね」と公言しているからである。だから、どうして匿名で運営しているのかとよく聞かれる。別に実名でもいいのだけれど、どうしても実名にしなければならない積極的な理由、たとえば相談料などの振込先として実名を公開するなど――が、ボランティアでやっている当サイトでは、その必要性がまったくないからである。

実名にしなければならない積極的な理由は今のところないが、匿名にしている積極的な理由のほうはあるのだ。ひとつは、自分の考えを、だれに遠慮することなく、ストレートに書けるからである。自分の実名をさらせば、リアルの世界でぼくとつながっている集団の眼がやはり気になる。ここで「集団」というのは人によっていろいろあって、それぞれ違う。人によっては「ご近所」だったり「町内会」だったりする。あるいは「職場」だったり「同窓会」だったりする。為政者の批判をすれば、もっと大きな「国」も意識せざるを得ない。

このように、自分が気になる集団には大小・遠近がある。それらを総じて「世間」としてみよう。「世間の眼が気になる」というやつである。ぼくは、そういう集団つながりを極力敬遠してきたし、実名を公表してもいいつもりでこれまで記事を書いてきた。だから、ぼくの周囲の人には当サイトをやっていることを公言している。ぼくだけのことならまだいい。

が、ぼくには家族もいる。家族を介しての集団の眼、世間の眼というやつをどうしても意識せざるをえなくなる。そうなると、自分の思ったことをストレートに書けるかどうか自信がないのだ。それと、ぼくの書く記事の内容が気に入らなくて、「警告」してこられる方々もときどきおられるのだ(「批判」でなくて「警告」である)。そういうこともあって、ぼくはいいのだけれど、家族のことを思うと、やはり実名公開は躊躇せざるを得ない。これがもうひとつの理由である。杞憂かもしれないが、家族に迷惑をかけないこと、家庭に持ち込まないことを条件に、この活動を許してもらっている。

以下は、ある弁護士さんが書かれた記事からの引用である。

世の中には自分の利益のために不自然なストーリーを貫き通す人がいます。その内面には不愉快が満ちているはずです。事実を捻じ曲げることなく、自然な気持ちに従う生き方をするならば、このうっとうしい梅雨空ですら、少し我慢すれば清々しい夏空に変ると希望を持つことができます。現実の世界で不正をして大きな利益を得ても、青い夏空を見て清々しい気分になれないという以上の大きな代償を払うことになります。

 
ぼくがストレートでものをいうのも、「青い夏空を見て清々しい気分」になってみたいからである。奥歯にものが挟まっていたのでは、こうはいかない。でも、匿名だと、これがいまいちなんだなあ。別にやましいことをしているわけでもないし、もっと正々堂々としたいと思う。が、匿名だからだれ憚ることなく好き勝手を言えるのかもしれない。これは今後の検討課題だとしておきたい。

当事務所についての蛇足的補足

なお、当方の所在地を「加賀市大聖寺」まで残したのは(以前は番地まで明記していた)現在は閉めてしまった旧事務所の所在がそこだったからである。お近くの方は、メールや電話よりも直接お会いしたほうが断然いいから旧所在地(の一部)を残している。メールや電話での相談では、一般的・抽象的な回答しか出来ないことが多いからである。

なお、当事務所は相談だけを受け付けており、調査は一切やらない。調査まで手弁当ではぼくらは足が出てしまうからである(相談だけでも本を買ったり等諸経費がかかるから赤字である)。それでもどうしても調査してほしいということでしたら、弁護士を通していただきたい。その場合は地域をとくに限定しない。ただし、時期によっては、家庭の事情や仕事の事情による制約があるかもしれないことをお断りしておきたい。

ということで、相談に関しては一切お金はかからない。ただし、相談件数が多くなり、ぼくらのキャパシティを超えることになったら、生活に困っている方、深刻な方、難易度が高い方の案件を優先させたい。

どうして無料でやっているのか。ひとつは、有料にしてしまうと、非弁行為だのなんだのと後ろ指をさされるからである。違法なことはやりたくないし、やるつもりもない(注)。タダなら正々堂々とできる。あるいは弁護士を通してなら正々堂々とできる。しかし、そんなことよりも、ただでもいいから、ネットで思ったことを書くだけでなく、リアルの世界でも何かのお役に立ちたいのだ。現実に発生している問題にかかわることで、調査員としてのぼくらの職業勘や調査レベルを維持したい。そういう気持ちが強い。

(注)金沢弁護士会所属の弁護士(役職者)に当サイトの存在を告知済みである。もし何か問題がありましたらおっしゃってくださいとぼくの方から通告したが、今のところ先方から何も言ってきていない。弁護士の方で、もし何か問題があることに気づかれましたら、苦情として対応しますので、よろしくお願いいたします。

当事務所の回答は自己責任で

なお、当事務所の回答はあくまで参考意見である。セカンドオピニオンを必ず実施してほしい。あるいは、セカンドオピニオンとしての利用でもかまわない。とにかく、1つだけの意見で決めないことである。

それと、回答には時間を要すると思っていただいた方がいいだろう(ただし、電話なら比較的早く対応ができるかと思います)。ぼくらは別に仕事をもっており、こちらで生計を立てているわけではないし、家庭の事情(主夫や子育てなど)もあるため優先順位がどうしても下がってしまう。ボランティアなんだからそれくらいはがまんしろというわけでもないが、リアルの生活のほうが大事なので、お許しいただきたい。

引き換え条件

有料でないこととの引き換え条件というわけでもないけれど、持ち込まれた事故情報の2次使用をお許しいただきたい。2次使用といっても当サイトの記事として使うのみである。たとえば質問に対する回答というような記事である。個人名および個人名が特定されるような使い方は一切しない。

個人情報に関連してであるが、中にはこちらが要求もしないのに、画像等個人情報を事務所宛に郵送される方もおらえる。その取扱いに困ることもあるため、一定の期間が過ぎた時点で、返却できるものは返却し、メール等で添付した資料については削除することにしている。流失することが絶対ないことをここで明記したい。

中国語対応可能

当サイトは中国語でも対応可能である。電話でもいいし、メッセージでもよろしい。後遺障害に関する豊富な医療調査経験と中国語対応が可能なところがうちの強みだと思っている。電話がつながらなかったら、折り返しこちらから電話することがないため、時間をおいてまたお架けください。電話代だけは申し訳ありませんがそちらで負担していただきたい。

本现场可以用汉语对应、如过在日本有遇到交通事故的无论是中国人还是台湾人、请随时商量、商量的时候、请在网上「留言」。

ご批判・苦情について

当サイトの記事で何か間違いや苦情等ございましたらお知らせいただきたい。理由を示していただき、もっともだと判断したときは、すみやかに削除など善処するつもりである。当サイトで書いた記事内容に固執し、意固地を通すつもりはまったくないし、書き直そうか検討中の記事も現にいくつかある。どうかよろしくお願いいたします。

【18・10・26改定】調査は受けないとしていたが、「弁護士を通じて」をいれるなど、内容を変更した。なお、当方から弁護士や鑑定人の紹介はやらない。念のため。

【18・11・03最終改定】内容の変更はなく、一部表現を変えたのみ。

【感銘を受けた人たちとその言葉】

(小田実)
ひとりでもやる。ひとりでもやめる。

(本多勝一)
日本では、冒険は「無謀」でないときだけ支持されている。だが、「無謀でない冒険」とは形容矛盾であって、冒険は本来「無謀」なものである。100パーセント安全な冒険は、冒険とはいわない。大なり小なりの失敗の可能性があって、なお実行してみること、トライアル=アンド=エラー(試行錯誤)の原則に立つこと、賭けの要素がはいることが冒険である。日本では実行にあたって、ただの1パーセントも失敗の可能性があってはならないのだ。失敗しないための最も確実な方法は、何もしないことである。すこしでも冒険的だったら中止すること。これが、現在のところ独創的仕事に乏しい日本の社会での根本理念となっている。

(西堀栄三郎)
新しいことをやろうと決心する前に、こまごまと調査すればするほど、やめておいた方がいいという結果が出る。 石橋を叩いて安全を確認してから決心しようと思ったら、おそらく永久に石橋は渡れまい。やると決めて、どうしたらできるかを調査せよ。

(宮本常一)
ひとり歩いていて、まったく人手のくわわっていない風景に出あうことがあります。海岸の波のうちあっている所とか、山の中の木のしげっている所とか、または川のほとりなどですが、そういう風景は何となく心をさびしくさせます。しかし、人手のくわわっている風景は、どんなにわずかにくわわっていても、心をあたたかくするものです。海岸の松原、街道のなみ木みちをはじめ、植林された山もまた、なつかしい美しさを持っています。そうした所に見出す一本のみちも、こころをあたためてくれるものです。

そのような風景はよく考えて見ると、この世をすこしでも住みやすくしよう、と努力してつくられたものなのです。自然にくわえた工事というものは、われわれの生活を不利にするためのものは一つもないのです。そこには、おのずから人々のあたたかい心があらわれているのです。・・・しかもそうしたものは、有名な人のした事業はいたってすくないのです。多くは、私たちのように、平凡な人々のしごとだったのです。

(魯迅)
暴君の治下の臣民は、おおむね暴君よりもさらに暴である。暴君の暴政はしばしば暴君治下の臣民の欲望を満たすことができない。・・・暴君の臣民は、暴政が他人の頭上で暴れてくれるのを望むだけだ。自分はおもしろがって眺め、「残酷」を娯楽とし、「他人の苦痛」を見世物として、慰安にするだけだ。自分は「運よく逃れた」のが自慢の種である。

(宇沢弘文)
日本における自動車通行のもっとも特徴的な点を一言にしていえば、歩行者のために存在していた道路に、歩行者の権利を侵害するようなかたちで自動車の通行が許されているという点にある。

(辺見庸)
私の痛み。他の痛み。何人も他の痛みを痛むことはできません。しかしながら痛みの孤独をみとめるだけで終わるのではあまりにもさみしい。痛みを共有することができないという絶望的なほどの孤独をかかえて私たちの生はある。ならば、その孤独にうちのめされながらも、なお他の痛みを共有しようとする不可能性にこそ私は愛の射程を見出すのです。

(ジョージ・オーウェル)
ナショナリストはすべて、過去を改変できるものだと信じている。ときには彼が当然そうなくてはならないと思うとおりの事が起こる幻想の世界にまよいこんで―そこでは、スペインの無敵艦隊が勝ち、1918年のロシア革命は粉砕される―こういう幻想の断片をすこしでも多く、歴史書に持ちこもうとする。

(阿部謹也)
日本の個人は、世間向けの顔や発言と自分の内面の想いを区別してふるまい、そのような関係の中で個人の外面と内面の双方が形成されているのである。いわば個人は、世間との関係の中で生まれているのである。世間は人間形成の世界である限りでかなり曖昧なものであり、その曖昧なものとの関係の中で自己を形成せざるをえない日本の個人は、欧米人からみると、曖昧な存在としてみえるのである。ここに絶対的な神との関係の中で自己を形成することからはじまったヨーロッパの個人との違いがある。わが国には人権という言葉はあるが、その実は言葉だけであって、個々人の真の意味の人権が守られているとは到底いえない状況である。こうした状況も世間という枠の中で許容されてきたのである。

(本田宗一郎)
息子や親せきでないと社長にしないとか、東大出でないといかんとか、企業に関係のない条件で社長を選んでいるところがある。みんなが見ているというのに、それでいいと思っているんですかね。会社は大勢が飯を食うところ、大勢の生命の源泉です。そこを忘れたら会社は潰れますよ。

(近藤誠)
がんもどき概念は、推論をまじえていますから、真実かどうか保証がない、という反論もあるでしょう。しかし、推論せざるをえないのは、本物のがんかどうかもわからない小さなしこりを、臓器も含めてどんどん切除しはじめてしまったからで、がんもどき概念のがわに落ち度があるわけではありません。かりに推論という言葉を使うなら、早期がんが本物のがんであるということは、推論どころか想像にすぎない、と指摘しておきましょう。何しろ、早期がんと診断するや切りまくってきた結果、小さなしこりに人を殺す力があるかどうか確かめられておらず、すべての早期がんが本物のがんであるという主張は、想像による仮説にすぎません。これは推論以前の問題でしょう。

(三上章)
日本文法の構文論はまことに幼稚である。幼稚の原因は一つではないが、中でも最も大きい原因は、土台がゆがんだままなことである。土台、すなわち構文論のイの1条に「文は主語と述語から成る」という虚構が据えてあることである。

(石川三四郎)
あなたたちが、ほとんど権力を奪取しそうになる時、いつもかならず強い方につく連中が、ただ権力にしがみつきたいために、あなたたちの方へなだれこむ。その連中がいないと権力が取れないが、仲間になったもののうちの誰が、そのような連中かは見抜けない。そのような連中によって権力の内部から腐敗が進む。

(イェーリング)
ある国民がみずからの法に注ぎ、みずからの法を貫くための支えとする愛情の力は、その法を得るために費やされた努力と労苦の大きさに比例する、と。国民とその法との最も固い絆をつくり出すのは単なる習慣ではなくて払った犠牲である。

(梅棹忠夫)
老子には「生きがい」のかんがえはないです。生きがいのそもそもの否定から出発しているんだとおもいます。人生の目的化とか、そういうものも全部ないです。目標があってそれに対して努力するという、その努力がそもそもない。むしろ、そういうことは悪だというふうになっている。有用なこと、役にたつことは、つまらぬことだいうことになっている。何かを達成するというようなことは、みんなつまらないことなんだ、というふうになっている。

役にたたないことこそ一番いい生き方なんだ。役にたつことをいかにして拒否していくか、ということですね。これは、わたしもたいへんえらい思想だとおもう。論理的にこれをやぶろうとおもっても、ちょっと歯がたたないですね。人類が生んだ最高の知恵といいますか、2000年も昔に、えらいことをいった人があるものだとおもいます。

(なだいなだ)
自分のものさしを持つようになる人間の方が、気分的には安定するようだね。というのは、平均的な枠の中に自分を押しこめた人間は、つねに他人のものさしに気を使っていなければならないからだ。つまり、はたを、世間体というやつを、気にする。そればかりか平均からはずれた人間は、自分のたよりにしているものさしを、動かしてしまう危険のある人間だから、つまりは、自分をおびやかす存在なのだ。いわば、自分の土台をおびやかす敵なのだね。だから、はげしい敵意を、そうした人間にむける。人は人、自分は自分、と思っているものは、自分に直接被害がおよぶような他人の行為をのぞいて、他人の行動に寛容でいられる。

両方とも、自分を正常と見なしているとしても、内容は、そのようにちがうのだよ。

(中野好夫)
由来ぼくの最も嫌いなものは、善意と純情との二つにつきる。考えてみると、およそ世の中に、善意の善人ほど始末に困るものはないのである。ぼく自身の記憶からいっても、ぼくは善意、純情の善人から、思わぬ迷惑をかけられた苦い経験は数限りなくあるが、聡明な悪人から苦杯を嘗めさせられた覚えは、かえってほとんどないからである。悪人というものは、ぼくにとっては案外始末のよい、付き合い易い人間なのだ。

・・・それにひきかえ、善意、純情の犯す悪ほど困ったものはない。第一に退屈である。さらに最もいけないのは、彼らはただその動機が善意であるというだけの理由で、一切の責任は解除されるものとでも考えているらしい。

(川田順造)
「史」を「ふみ」とも読む感覚からすれば、無文字社会の歴史という問題のたてかたからして、意味のないものにみえるかもしれない。だが、文字を用いなかった、あるいはいまも用いていない社会は世界に数多い。言語は人類に普遍的に用いられているが、文字は少しも普遍的ではない。文字を実際に使う人の数ということも考慮にいれれば、大部分の人が文字を用いなかった社会の方が、人類の歴史の中でははるかに多かったにちがいない。

それらの社会も、「ふみ」を用いる社会と同じ深さの時間をへてきた以上、文字をもたない社会の歴史が問題にされるのは、当然のことである。無文字社会の歴史は、どういう性質をもっているのか、文字に記録された過去をもつ社会と、そうではない社会とで、歴史というものに質のちがいがあるのか、文字記録のあるなしと社会の成員の歴史意識とのあいだには、関連があるのか、さらに、そうした歴史意識のちがい(もしあるならば)と、社会構造やその変革とは、どのような相互作用をもつはずなのかなどの点が、本来の意味での「世界」史の一部として考えられなければならない。

(上岡龍太郎)
はたから見てたら羨ましく見えるんやろうね。自由な時間に好き勝手やってエエ思いしてるように見える、そやから変に嫉妬する連中が出てくる。つまり、見栄えが悪い子供の教育に悪い。何より朝から晩まで働いてる俺の胸糞悪い。

僕ら芸人は良いですよ、末路哀れは覚悟の上、そんなもん畳の上で死ねん、親の死に目にも遭えんと思ってますよ。そやけど人生で身動きとれん様になった人に救いの手を差伸べんと、変に迫害する連中が居るのには呆れる、それも政治家。

政治家とか言う連中は何の為に存在するのか分ってない奴が多すぎる。政治家で強いモンの味方する奴なんか最低ですよ、強い奴はほっといても生きていけるんやから。そうじゃなく、弱いモンの味方せえよ。そやなかったらお前らの存在意義は何なんや?ちゅう話でね。

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