アーカイブ:2018年 4月

【感銘を受けた人たちとその言葉】

(小田実)
ひとりでもやる。ひとりでもやめる。

(本多勝一)
日本では、冒険は「無謀」でないときだけ支持されている。だが、「無謀でない冒険」とは形容矛盾であって、冒険は本来「無謀」なものである。100パーセント安全な冒険は、冒険とはいわない。大なり小なりの失敗の可能性があって、なお実行してみること、トライアル=アンド=エラー(試行錯誤)の原則に立つこと、賭けの要素がはいることが冒険である。日本では実行にあたって、ただの1パーセントも失敗の可能性があってはならないのだ。失敗しないための最も確実な方法は、何もしないことである。すこしでも冒険的だったら中止すること。これが、現在のところ独創的仕事に乏しい日本の社会での根本理念となっている。

(西堀栄三郎)
新しいことをやろうと決心する前に、こまごまと調査すればするほど、やめておいた方がいいという結果が出る。 石橋を叩いて安全を確認してから決心しようと思ったら、おそらく永久に石橋は渡れまい。やると決めて、どうしたらできるかを調査せよ。

(宮本常一)
ひとり歩いていて、まったく人手のくわわっていない風景に出あうことがあります。海岸の波のうちあっている所とか、山の中の木のしげっている所とか、または川のほとりなどですが、そういう風景は何となく心をさびしくさせます。しかし、人手のくわわっている風景は、どんなにわずかにくわわっていても、心をあたたかくするものです。海岸の松原、街道のなみ木みちをはじめ、植林された山もまた、なつかしい美しさを持っています。そうした所に見出す一本のみちも、こころをあたためてくれるものです。

そのような風景はよく考えて見ると、この世をすこしでも住みやすくしよう、と努力してつくられたものなのです。自然にくわえた工事というものは、われわれの生活を不利にするためのものは一つもないのです。そこには、おのずから人々のあたたかい心があらわれているのです。・・・しかもそうしたものは、有名な人のした事業はいたってすくないのです。多くは、私たちのように、平凡な人々のしごとだったのです。

(魯迅)
暴君の治下の臣民は、おおむね暴君よりもさらに暴である。暴君の暴政はしばしば暴君治下の臣民の欲望を満たすことができない。・・・暴君の臣民は、暴政が他人の頭上で暴れてくれるのを望むだけだ。自分はおもしろがって眺め、「残酷」を娯楽とし、「他人の苦痛」を見世物として、慰安にするだけだ。自分は「運よく逃れた」のが自慢の種である。

(宇沢弘文)
日本における自動車通行のもっとも特徴的な点を一言にしていえば、歩行者のために存在していた道路に、歩行者の権利を侵害するようなかたちで自動車の通行が許されているという点にある。

(辺見庸)
私の痛み。他の痛み。何人も他の痛みを痛むことはできません。しかしながら痛みの孤独をみとめるだけで終わるのではあまりにもさみしい。痛みを共有することができないという絶望的なほどの孤独をかかえて私たちの生はある。ならば、その孤独にうちのめされながらも、なお他の痛みを共有しようとする不可能性にこそ私は愛の射程を見出すのです。

(ジョージ・オーウェル)
ナショナリストはすべて、過去を改変できるものだと信じている。ときには彼が当然そうなくてはならないと思うとおりの事が起こる幻想の世界にまよいこんで―そこでは、スペインの無敵艦隊が勝ち、1918年のロシア革命は粉砕される―こういう幻想の断片をすこしでも多く、歴史書に持ちこもうとする。

(阿部謹也)
日本の個人は、世間向けの顔や発言と自分の内面の想いを区別してふるまい、そのような関係の中で個人の外面と内面の双方が形成されているのである。いわば個人は、世間との関係の中で生まれているのである。世間は人間形成の世界である限りでかなり曖昧なものであり、その曖昧なものとの関係の中で自己を形成せざるをえない日本の個人は、欧米人からみると、曖昧な存在としてみえるのである。ここに絶対的な神との関係の中で自己を形成することからはじまったヨーロッパの個人との違いがある。わが国には人権という言葉はあるが、その実は言葉だけであって、個々人の真の意味の人権が守られているとは到底いえない状況である。こうした状況も世間という枠の中で許容されてきたのである。

(本田宗一郎)
息子や親せきでないと社長にしないとか、東大出でないといかんとか、企業に関係のない条件で社長を選んでいるところがある。みんなが見ているというのに、それでいいと思っているんですかね。会社は大勢が飯を食うところ、大勢の生命の源泉です。そこを忘れたら会社は潰れますよ。

(近藤誠)
がんもどき概念は、推論をまじえていますから、真実かどうか保証がない、という反論もあるでしょう。しかし、推論せざるをえないのは、本物のがんかどうかもわからない小さなしこりを、臓器も含めてどんどん切除しはじめてしまったからで、がんもどき概念のがわに落ち度があるわけではありません。かりに推論という言葉を使うなら、早期がんが本物のがんであるということは、推論どころか想像にすぎない、と指摘しておきましょう。何しろ、早期がんと診断するや切りまくってきた結果、小さなしこりに人を殺す力があるかどうか確かめられておらず、すべての早期がんが本物のがんであるという主張は、想像による仮説にすぎません。これは推論以前の問題でしょう。

(三上章)
日本文法の構文論はまことに幼稚である。幼稚の原因は一つではないが、中でも最も大きい原因は、土台がゆがんだままなことである。土台、すなわち構文論のイの1条に「文は主語と述語から成る」という虚構が据えてあることである。

(石川三四郎)
あなたたちが、ほとんど権力を奪取しそうになる時、いつもかならず強い方につく連中が、ただ権力にしがみつきたいために、あなたたちの方へなだれこむ。その連中がいないと権力が取れないが、仲間になったもののうちの誰が、そのような連中かは見抜けない。そのような連中によって権力の内部から腐敗が進む。

(イェーリング)
ある国民がみずからの法に注ぎ、みずからの法を貫くための支えとする愛情の力は、その法を得るために費やされた努力と労苦の大きさに比例する、と。国民とその法との最も固い絆をつくり出すのは単なる習慣ではなくて払った犠牲である。

(梅棹忠夫)
老子には「生きがい」のかんがえはないです。生きがいのそもそもの否定から出発しているんだとおもいます。人生の目的化とか、そういうものも全部ないです。目標があってそれに対して努力するという、その努力がそもそもない。むしろ、そういうことは悪だというふうになっている。有用なこと、役にたつことは、つまらぬことだいうことになっている。何かを達成するというようなことは、みんなつまらないことなんだ、というふうになっている。

役にたたないことこそ一番いい生き方なんだ。役にたつことをいかにして拒否していくか、ということですね。これは、わたしもたいへんえらい思想だとおもう。論理的にこれをやぶろうとおもっても、ちょっと歯がたたないですね。人類が生んだ最高の知恵といいますか、2000年も昔に、えらいことをいった人があるものだとおもいます。

(なだいなだ)
自分のものさしを持つようになる人間の方が、気分的には安定するようだね。というのは、平均的な枠の中に自分を押しこめた人間は、つねに他人のものさしに気を使っていなければならないからだ。つまり、はたを、世間体というやつを、気にする。そればかりか平均からはずれた人間は、自分のたよりにしているものさしを、動かしてしまう危険のある人間だから、つまりは、自分をおびやかす存在なのだ。いわば、自分の土台をおびやかす敵なのだね。だから、はげしい敵意を、そうした人間にむける。人は人、自分は自分、と思っているものは、自分に直接被害がおよぶような他人の行為をのぞいて、他人の行動に寛容でいられる。

両方とも、自分を正常と見なしているとしても、内容は、そのようにちがうのだよ。

(中野好夫)
由来ぼくの最も嫌いなものは、善意と純情との二つにつきる。考えてみると、およそ世の中に、善意の善人ほど始末に困るものはないのである。ぼく自身の記憶からいっても、ぼくは善意、純情の善人から、思わぬ迷惑をかけられた苦い経験は数限りなくあるが、聡明な悪人から苦杯を嘗めさせられた覚えは、かえってほとんどないからである。悪人というものは、ぼくにとっては案外始末のよい、付き合い易い人間なのだ。

・・・それにひきかえ、善意、純情の犯す悪ほど困ったものはない。第一に退屈である。さらに最もいけないのは、彼らはただその動機が善意であるというだけの理由で、一切の責任は解除されるものとでも考えているらしい。

(川田順造)
「史」を「ふみ」とも読む感覚からすれば、無文字社会の歴史という問題のたてかたからして、意味のないものにみえるかもしれない。だが、文字を用いなかった、あるいはいまも用いていない社会は世界に数多い。言語は人類に普遍的に用いられているが、文字は少しも普遍的ではない。文字を実際に使う人の数ということも考慮にいれれば、大部分の人が文字を用いなかった社会の方が、人類の歴史の中でははるかに多かったにちがいない。

それらの社会も、「ふみ」を用いる社会と同じ深さの時間をへてきた以上、文字をもたない社会の歴史が問題にされるのは、当然のことである。無文字社会の歴史は、どういう性質をもっているのか、文字に記録された過去をもつ社会と、そうではない社会とで、歴史というものに質のちがいがあるのか、文字記録のあるなしと社会の成員の歴史意識とのあいだには、関連があるのか、さらに、そうした歴史意識のちがい(もしあるならば)と、社会構造やその変革とは、どのような相互作用をもつはずなのかなどの点が、本来の意味での「世界」史の一部として考えられなければならない。

(上岡龍太郎)
はたから見てたら羨ましく見えるんやろうね。自由な時間に好き勝手やってエエ思いしてるように見える、そやから変に嫉妬する連中が出てくる。つまり、見栄えが悪い子供の教育に悪い。何より朝から晩まで働いてる俺の胸糞悪い。

僕ら芸人は良いですよ、末路哀れは覚悟の上、そんなもん畳の上で死ねん、親の死に目にも遭えんと思ってますよ。そやけど人生で身動きとれん様になった人に救いの手を差伸べんと、変に迫害する連中が居るのには呆れる、それも政治家。

政治家とか言う連中は何の為に存在するのか分ってない奴が多すぎる。政治家で強いモンの味方する奴なんか最低ですよ、強い奴はほっといても生きていけるんやから。そうじゃなく、弱いモンの味方せえよ。そやなかったらお前らの存在意義は何なんや?ちゅう話でね。

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