アメブロは「嫌中嫌韓」か「陰謀論系」のバカばっかりの「オワコン」なのでやめた

アメブロはやめた

当サイト以外に、これまで「交通事故被害者は2度泣かされる」というブログを運営してきた。が、更新は昨年(2017年)の4月28日を最後にして止まったままである。たぶんもう更新することはない。撤退理由は、アメブロという無料ブログだったため、いろんな制約があるとともに、リスクが存在したからである。無料で借りているという、他人の軒下を借りる言わば賃借人(正確に言えば使用貸借人)の立場だったのだから、これはある意味やむをえないことだった。どういう「制約」と「リスク」が存在したのか。

アメブロをやめたわけ・その1

①メッセージ等での個人情報のやりとりができなかったこと。
個人的に知り合いになっても、個人情報でのメッセージでのやりとりができないというのは不便この上なかった。

②禁止語が存在したため、表現上の制限が存在したこと。そのため、自由に書くことができなかった。たとえば「ron sexsmith」という人名が、なかに「sex」という禁止用語を使用しているため、記事にして公開できなかった。こういう禁止用語がかなり存在するらしい。

これではまるでジョージオーウェルの描く「1984年」の世界だ。その世界では、従来のオールドスピーク(旧語法)からニュースピーク(新語法)への置き換えを公然とあるいは秘密裏に行なわれた。「1984年」(ジョージ・オーウェル著)から、該当箇所を引用しよう。

ニュースピークの目的は、イングソック(注)の熱狂的な支持者に固有な世界観や精神的慣習に対して一定の表現手段を与えるばかりではなく、イングソック以外のあらゆる思考方法を不可能にするということにあった。その意図するところは、ニュースピークが最終的な言語として採用され、オールドスピークが忘れ去られてしまった時こそ、異端の思想―即ちイングソックの諸原則から逸脱する思想は、それが少なくとも文字に依存する限り、言語活動として成立させないということであった。

ニュースピークの語彙は、党員がまさに表現したいと思うどのような意味に対しても的確な、或いはしばしば極めて微妙な表現を与えるように組み立てられていたし、一方ではそれ以外のどんな意味も、またそうした意味を間接的な方法によって引き出そうとする全ての可能性も排除していたのである。この事は或る程度まで新しい用語を造り出すことによって達成されたが、しかし主として好ましくない単語を除去することによって、また留用語の持つ正統的で無い意味や、その二次的なあらゆる意味をなるべく剥奪することによって、それは達成されたのであった。

(注)

イングソックとは、ジョージ・オーウェルの小説「1984年」に登場する架空の全体主義国家オセアニアの支配的イデオロギー。イングソックとはニュースピーク(新語法)による単語であり、イングランド社会主義(English Socialism)の略称である。

 
禁止用語の採用や好ましくない用語の改変には、常にこのような危険がつきまとっている。この種の自己規制は旧ブログだけの問題ではなくて、日本全体を覆う問題だと思う。しょせんはフィクションの世界のことだと思っている人がいるだろうから、日本における実際に起きた一例を示そう。

一昔前、「侵略」を「進出」に言い換えた「教科書問題」があった。どうして「進出」に言い換えたがったのかを、例文で示してみよう。

①日本は中国を侵略した。
②日本は中国に進出した。

 
「侵略」や「進出」の語彙的意味についてはたいして違いがないからそれには言及しない。ここで問題にするのはその文法的意味のほうである。すなわち、「侵略」は必ず「を」をとって、被害者を明示する役割があるが、「進出」は「に」をとり、単にできごとの場所を示すにとどまる。この文法的意味の違いについてもっとわかりやすくしようと思ったら、被害の受け手である中国を頭にもってくることである。

〇中国は日本に侵略された。
×中国は日本に進出された。

 
後者が日本語として成立しないことがわかるだろう。すなわち、「進出」には、被害の受け手を明示しないで、すましていられる役割、効用があるわけだ。だから、「侵略」を「進出」に変えたがるわけである。

③禁止用語が存在したのみならず、禁止画像も存在した。たとえばジミー・ヘンドリックスの「エレクトリック・レディーランド」のジャケットがこの禁止画像に該当したため、これも公開できなかった。どういう画像だったかを下に示す。

images
 
公開がはばかれるほどの画像だとは、ぼくにはとても思えない。皆さんはどうお感じか。次にこれなんかはどうか。ロキシーミュージックのアルバムジャケットである。これもダメなんだろうね、きっと。

Country Life
 
次に、ストロークスのファーストアルバムジャケットのこれなんかはどうか。

Is This It
 
他にも、ぼくが所持する問題になりそうなアルバムジャケットの画像を示してみたい。ローリングストーンズの「Sticky-Fingers」。ミック・ジャガー(?)の「イチモツ」の形が載っているジャケット。いやあ、大きいのに驚いた。

 
レッド・ツェッペリンの「聖なる館」。幼児の裸が載っているということで、発売当時物議をかもしたらしい。

 
ジョン・レノンの「Two-Virgins-Album」。これはモロ見えだね。

 
デビット・ボウイの「ダイヤモンドの犬」。犬の性器が載っているらしいのだが、そう指摘されるまで気づかなかった。

 
セックス・ピストルズの「勝手にしやがれ」。ジャケットの「Bollocks」が「キンタマ」を意味するからというが、これはいちゃもんだろう。本当の理由は歌詞の内容と労働者階級訛りで歌ったことにある。

 
④月に1、2度のアクセスできない「工事」期間が発生すること。せいぜい7、8時間のことにすぎないが、こういうのはないほうがいい。

せっかく苦労して書いた記事の著作権がアメブロに所属してしまうこと
これってふだんは意識することがないが、争いになった場合に相当に深刻な問題になる。→その後、著作権は記事を書いた本人にあることがわかったので、訂正します。

⑥広告がやたらと多いこと。

⑦メッセージに保存期間なるものがあって、それを過ぎるとメッセージが消滅してしまうこと。

⑧アクセスカウンターがひどく水増しされていること。

⑨突然、ブログ自体が閉鎖されてしまうリスクがあること。アメーバはその理由を示さないで強権発動をすることもあるらしい。これは困ったものだと思う。

以上が、アメブロから独自ドメインでWORDPRESSに移った理由である。

アメブロをやめたわけ・その2

さらに積極的な理由もある。

独自ドメインによるブログはアクセス数がアップすると言われている。ぼくのような、多くの人に見てもらうことが目的でブログ記事を書いている者にとって、これは大きな移転理由である。以上、思いつくままに書いた。

アメブロは「嫌中嫌韓」か「陰謀厨」の巣窟になっていた

これが最近になって新たに加わった撤退理由である。参考になる記事(「アメブロの荒廃ぶりが、すさまじい」)があったので、引用したい(引用元を明示していたが、引用元で該当記事を削除したため引用解除した)。

このごろのアメブロで、活発に活動をしている人たちというのは、その9割以上が

商用か宗教
ネトウヨ
陰謀論者

ですから、「なぜか、いまだに人が集まっているアメブロ」というのは、上の3つのうちのどれかだと思っても、だいたい間違いではない。つまり、今も元気に、アメブロでわいわいやっている人たちというのは、そのほとんどが

「仕事の人」
「バカ」
「バカ」

ということになるので、きょうび「アメブロで賑わっている場所」は、「バカ率が異様に高い」ということに、なるわけなんです。そうではないという場合もあるんですが、その「数」自体が、ものすごく少ない。

 
この指摘は、やや誇張があるようにも思えないわけでもないが、ぼくの実感ともかなりの程度において一致する。「ネトウヨ」と「陰謀論者」は無知によるバカか、そうでなくてわかっていてやっているなら、人格破綻者である(ただし、「嫌中嫌韓」「陰謀厨」は左翼にも多い)。ぼくはこういう連中に見せるために記事を書くつもりはまったくないので、アメブロから撤退したわけである。かつて辺見庸の新刊紹介記事で、「陰謀厨」への批判を書いたことがある。以下に、再録しておきたい。

辺見庸の「1★9★3★7」完全版



増補前の本はすでに読んでいたが、あらためて完全版を買い求めて読んだ。

作者の辺見庸という人は、海外特派員の経験が長かった元新聞記者だったから、ものの見方が横に広がるという特徴がもともとあった人だ。海外の経験と日本のそれとを比べてものを言う。考える。そういうタイプの人だった。

その対極にあるのが、海外との比較ではなくて、日本の過去との比較に徹する人たちだと思う。横へは少しも広がらないで、日本の過去へと遡ろうとする。そして過去の遡りも明治維新までくらいで、それよりも過去に遡ろうとしないのがその特徴だ。そういう人たちのものの見方はたいてい「偉いさん」の視点でものごとをとらえることになっていて、そこに立脚して、きわめて細い糸でたぐりよせるような歴史観になっている。以前読んだ半藤一利の「昭和史・1926-1945」は、そのひとつ、いや大ベストセラーで、昭和史の第一人者だと言われているらしいからその代表格だろう。


 

辺見のように横へ広がるのと、半藤のように過去に遡るのと、どちらにも一長一短があるだろう。しかし、辺見の場合は、これまでの横への広がりにくわえて、最近の書「1937」で、自分の父親(戦場現場の小隊長クラス)に自分自身を投影することで1937年の日本の過去へと遡ろうとした。そのため、そこでの描写は、細糸をたらすような歴史観ではなく、もっと立体感のある骨太なものになっていると、「1937」を読みながらそのように強く感じた。

日中戦争からアジア・太平洋戦争へ。これが通常の歴史書の描き方である。半藤の「昭和史」もまたその部類である。そして、たいていの歴史書はアジア・太平洋戦争の書き出しが真珠湾攻撃から始める。半藤の著書もまたその類なのだが、たいていの歴史書とはちがって、歴史学会ではトンデモ説の部類のひとつして完全に否定されている真珠湾攻撃陰謀説へと半藤は傾くのである。歴史修正主義の信奉者がアメリカがわざと日本に攻撃させたという類の「陰謀論」に、半藤は見事に乗っかるのである。

アジア・太平洋戦争は真珠湾から始まったのか。

一般向けの書、岩波新書「アジア・太平洋戦争」(吉田裕著)ではこうなっている。

1941(昭和16)年12月8日午前2時15分(日本時間)、日本陸軍のタクミ支隊は英領マレー半島のコタバルへの上陸を開始。続いて3時19分には、日本海軍の機動部隊から発進した第一次攻撃隊が真珠湾への空爆を開始、ここにアジア・太平洋戦争の幕が切って落とされた。(P9)

 

同様の記載は、「昭和の歴史7 太平洋戦争」でも確認できる。


 
日本政府はイギリス政府に対して何ら宣戦布告をしていない。「真珠湾」が「だまし打ち」だろうとなかろうと、たとえ陰謀説どおりに、アメリカが「やらせた」のだったとしても(そんな証拠はないが)、少なくとも日本はイギリスに対しては完全な一方的奇襲を敢行したのである。オランダや中国に対しては、宣戦布告の対象にすらならなかった。

たいていの歴史書は、その立場にかかわらず、戦争を「真珠湾攻撃」から語り始める。そして12月8日といえば「真珠湾の日」と記憶されている。しかし、時間の順序からいえばマレー半島侵攻から始めるべきなのだ。このあたりが、陰謀説が流布される下地になっているように思う。

アジア・太平洋戦争は「真珠湾」からではなく、「マレー」から始まった。半藤の歴史修正主義色の濃い「昭和史」がベストセラーになり、「リベラル」界隈でも一定の評価を得ている現象は、日本風味「リベラル」の限界を示すものといえそうだ。

アメブロのメリット

ぼくが感じた無料ブログであるアメブロの問題点について書いた。アメブロの「悪口」ばかり書いたので、公平を期するためにアメブロのメリットについても最後に書いておきたい。

アメブロは無料である。しかも、ブログ開設までの手続が簡単ですぐに記事出しができること。ぼくの場合はアメブロを使ったが、とにかく便利な機能が満載で、登録してその日のうちに記事出しができたほどだ。ブログを始める際の、とっかかりとしてはたいへん有用だと思う。

「オワコン」

本人(ユーザー)にとって既に終わってしまった過去のもののこと。略称「オワコン」「終コン」「終わコン」。

 

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突然、交通事故にあわれた被害者は、怪我をされたり、車を破損などされたりして大変なことです。その損害の賠償をしてもらうために、これから、加害者そして加害者側の損保担当者を相手に示談交渉を進めなければならなくなります。しかし、交通事故は人生でそう何度も経験するわけではありません。なにをどのようにしたらいいのか途方に暮れてしまうのがふつうです。

ところが、事故被害者がまず相手にするのが加害者であり、そして、実際は加害者側損保の担当者です。損保の担当者はそのことで生計を立てているいわばプロであり、百戦錬磨で鍛えた知識と経験があります。かたや、知識も経験もほとんどない事故被害者。そんな素人がプロ相手にどのように交渉していったらいいのでしょうか。

交通事故に詳しい弁護士が知人にいるような幸運な方は別にして、たいていの方は途方に暮れてしまうことでしょう。一昔前は、素人とプロの交渉ごとということにふつうはなって、プロの思い描くストーリーどおりに押し切られるのがふつうでした。しかし、ネットが発達した現在、示談交渉を進める上での情報がネットを検索すればあふれかえっています。が、その情報は正しいものもあれば正しくないものもある。玉石混淆です。それらの情報に接した事故被害者にとって、どの情報が正しくて信頼できるのかがまずわかりづらいし、自分だけでは手に負えなくて、調査や交渉ごとをだれかに任せることも時に必要になってきます。が、ネット上には、われこそは事故被害者のためだと謳っているものばかりなので、実際にいったいだれを信頼したらいいのかわかりません。

知識とは中立なものであること

ここで注意してほしいのは、情報の正確さもさることながら、その情報(知識)そのものが中立なことです。

昔、東大卒が多い自民党が間違えるはずがないと豪語している自民党支持者に会ったことがあります。ぼくは苦笑するしかありませんでした。たしかに東大卒は勉強をいっぱいしているわけだから、その知識量も多くかつ正確だといえるかもしれません。ただ、知識それ自体はあくまで中立なものであり、どちらにも役に立つ武器なのです。したがって、その正確でたくさんの知識をどちらの側に使うかにある。わかりやすいたとえ話をしてみましょう。

知識は刀という武器と同じ


その昔、武士という職業が存在しました。この武士は帯刀を許された職業のことであり、刀の専門家です。殿様を頂点にして、殿様に雇用され、殿様を守るために武器である刀の技術を日夜みがいていた。

この武器である刀自体は殿様を守るためにも使えるし、農民に加勢して殿様に刃向かうためにも使えます。しかし、悲しいかな、現実は殿様を守るために使われた例が圧倒的に多く、農民に加勢するために使われた例など不幸にしてきわめて少なかった。ごく稀に後者のような武士が現れますが、こういう武士こそ庶民にとっての英雄であり、「七人の侍」はまさにそのようなタイプの武士たちでした。

利益が一致しているか相反しているかが重要

したがって、問題はその使い手自身にあります。使い手がどちらの側に立つかで知識もそれぞれの側の武器になる。そして、その使い手がどちらの側に立つかは双方の利益が一致するか相反するかでふつうは決まってきます。

この、肝心要のことを説明したサイトが皆無といっていいほどにみあたらないのは不思議なことです(というか、あえて否定しているサイトさえいくらでもみつかるくらいです)。

記事を読んでいただければたちどころにわかることですが、当事務所は「立場」を鮮明にしております。あえて鮮明にしているのは、人間や社会に対する見方は、その人自身の立場から自由にはならないからです。中立を装うことは考察を浅くし、論旨を不明確にし、自己を無責任な立場に置くことになる。「立場」のない「立場」などありようがない。当事務所の立場は、ぼく自身が社会的弱者であるため、弱者の立場に徹することです。ぼくのような弱虫は「七人の侍」のようには決してなれないけれど、せめてその心意気だけでも真似して、社会的強者に阿らないようにしたい。そういう気持ちで当サイトをたちあげました。丸山真男のことばを最後に引用しておきます。

丸山真男から

ゲーテは「行動者は常に非良心的である」といっておりますが、私たちが観照者、テオリア(見る)の立場に立つ限り、この言葉には永遠の真実があると思います。つまり完全にわかっていないものをわかったとして行動するという意味でも、また対立する立場の双方に得点と失点があるのに、決断として一方に与するという意味でも、非良心的です。にもかかわらず私たちが生きていく限りにおいて、日々無数の問題について現に決断を下しているし、また下さざるを得ない。純粋に観照者の立場、純粋にテオリアの立場に立てるものは神だけであります。その意味では神だけが完全に良心的であります。

私たちの社会というものは、私たちの無数の行動の網と申しますか、行動の組合せから成り立っております。社会がこうして私たちの行動関連から成り立つ限りにおいて、私たちは行動あるいは非行動を通じて他人に、つまり社会に責任を負っています。その意味では純粋に「見る」立場、ゲーテの言う意味での完全に良心な立場というものは、完全に無責任な立場ということになります。

したがってこの点でも神だけが、完全に無責任でありうるわけであります。認識することと決断することとの矛盾中に生きることが、私たち神でない人間の宿命であります。私たちが人間らしく生きることは、この宿命を積極的に引き受け、その結果に責任を取ることだと思います。この宿命を自覚する必要は行動関連が異常に複雑になった現代においていよいよ痛切になってきたのです。

世のなかには一方では、認識の過程の無限性に目をふさぎ、理論の仮説性を忘れる独断主義者もいれば、またそもそも認識の意味自体を頭から蔑視する肉体的行動主義者がいます。しかし他方その半面では、物事はそう簡単にはイエスかノーかきめられないのだ、もっとよく研究してからでなければなんともいえないという名目の下に、いつも決断を回避することが学者らしい態度だという考え方がかなり強い。

あるいは対立する政治的争点に対して、あれももっとも、これももっとも、逆にそれを裏返しとして、あれもいけない、これもいけないということで、結局具体的な争点に対して明瞭な方向性を打ち出すことを避ける態度をもって、良識的であるとか、不偏不党であるとか考える評論家やジャーナリストもかなりいるようであります。

たびたびゲーテの言葉を引いて恐縮ですが、ゲーテはこういうことをいっています。「自分は公正であることを約束できるけれども、不偏不党であるということは約束できない。」今申しましたような世上いわゆる良識者は対立者に対してフェアであるということを、どっちつかずということと混同しているのではないでしょうか。
「現代政治の思想と行動」丸山真男 P452-454

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