日本語は述語が文の最後にくるから、最後まで聞かないと結論がわからないとよく言われるが、本当か

今月読み終えた本。

日本語は述語が文の最後にくるから、最後まで聞かないと結論が何なのかわからない困った構造の言語だ―――と言われることがある。それを逆手にとって、評論家だったか学者だったかが、会話の中で、相手のそのときどきの表情をみて、相手が不機嫌そうにみえたら、日本語は最後のところまで結論を猶予できるから、最後でどんでん返しが可能であり、かえって便利なことばなのだという趣旨のことを過日の朝日新聞に書いていた。

たとえば、会話の中でAであるという結論が予想されるとき、相手が不機嫌そうになったら、最後のところでAでは「ない」と否定したり、Aとは「必ずしもいえない」などとあいまいにできるからたいへん便利なのだそうだ。その評論家の書いていることは、リクツとしてはそういうことが可能なのかもしれないが、現実問題としてはたしてそんなことができるのだろうかと私は思った。あまりに話ができすぎていて、作り話にちがいない、おいそれと乗せられてたまるものかと、私は思った。

そんなことを考えていたところ、つい最近読み返した寺村秀夫の本にこんなことが書いてあった。

ある会話をテープに吹き込んで、それを聞かせながら、ところどころで止めて、次にどういうことばが来るのか予想させるテストをしたら、日本人はつぎに来ることばや文をほぼ正確に言い当てるという。だから、たいていは終わりを聞くまでわからないということはない―――のだという。

その理由について、寺村(「日本語のシンタクスと意味Ⅰ」)はこう書いている。

日本語では、・・・実質語のうしろに「ハ、ニ、ノ、ヲ、ト」などといった機能語、いわゆる助詞が付いて、それがその実質語とあとの実質語とのいろんな関係を示す役を果たしている。聞き手は、だから「実質語+助詞」を聞くたびごとに、それがあとに出てくる実質語とどういう関係を結ぶのかをわかろうとする。(P26)

 

文法的にはまさにそういうことなのだろうけれども、私がウソっぽく感じたのはそういう難しい話からではない。人が会話するときに、自分がどういうことを言ったのか、自分の書いたことが容易に確認できる文章などとはちがって、会話は、記憶できるストックの容量がそうとうに限られていることである。それも年々、歳をとるごとにストック量が狭まっていると痛切に感じる。数分前に言ったことさえ思い出せないことがあるほどにストックするのがむずかしくなっているのだ。そんな私にとって、最後にどんでん返しをするなんて、まさに神業である。

最後のところでどんでん返しをするにはかなり特殊な記憶の才能や特別な訓練が必要だろう。そして、もっと重要なことは、そういう言い方をしている人が現実に本当にいたなら、きっとだれからも信用されないにちがいない。それは寺村の言うように、人はたいてい次にくることばを予想しているのだから、どんでん返しが身についている人は、その予想をたびたび裏切ることになるからである。そのため、その意図(不興を招くのを回避すること)に反して、かえっておかしな奴、調子をあわせる奴、信用できない奴だと思われるにちがいない。私が理屈としてはありえても実際の問題としてはありえないとしたのは、そういう理由もある。

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