「絶望の裁判所」(瀬木比呂志著)を読んでちょっとメモ

読んだ感想

裁判所がどういうところなのか、ふつうの市民にはまったくわからない。私もよく知らなかった。思想的な締め付けが強いところなのだろうなあくらいには想像していたけれど、私が想像していたのをはるかに超えるほどの衝撃的な事実の数々をこの本は明らかにした。内部告発本である。
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何か揉め事があれば裁判所が公正に裁いてくれるというのを期待するとおおはずれにはずれる、まったくの幻想だった。裁判官の頭の中にあるのは、裁判の公正さではなくて、いかに効率よく裁判を処理するかだった。そこには、公正さを装うが、実質的な公正さも基本的人権の観点も欠けている。他人の痛みを理解しようとするわけでもなく、処世術にたけた人たちが主流を形成している。基本的人権を守る最後の砦だといわれる裁判所がである。この国民にしてこの政治、この政治にしてこの裁判所というところか。ここだけが聖域なはずがなく、期待するほうがおかしいのだと、著者に嗤われたような気分だ。

この本でわかったこと。
①裁判員裁判は刑事司法の巻き返しの側面があること。
②裁判官多忙は神話だということ。刑事系裁判官は飲み会ばかりやっている。
③裁判官は世間知らずというのは間違い。処世術にたけた裁判官が多い。
④裁判の公正よりもいかに早く処理するかに心を砕いている。そのための和解や訴訟指揮の横行、押し付け。公正や真理探究が目的ではないのだから、訴訟資料さえテキトウにしか読まない裁判官もいるらしい。
⑤裁判官は専門バカ集団。専門以外知らないし、知ろうともしない。専門以外はシロウト同然。しかし、ふつうシロウトは自分が無知だという自覚があるし、そのため謙虚だが、裁判官はエリート意識が強く、試験でもっとも難しいといわれる司法試験の勝者だから、頭がいいとうぬぼれていて、無知の自覚がないこまった存在だということ。

交通事故に関して

自賠責の後遺障害の等級認定に裁判所は拘束されるわけではないにもかかわらず、裁判に訴えても自賠責の認定とは別に、裁判所が独自に判断することがほとんどない。すなわち、自賠責の認定が裁判所で覆ることがほとんどないことはよく知られているが、私は裁判官が多忙だからそんな余裕がないのかと思っていた。しかし、そうではなく、最初からやる気がないのと、その能力がないことが、上記の特徴からわかった。これなら、しごく当然の結果だと思う。

ほかに、交通事故に関する気になる記載をいくつかみつけたのでご紹介しよう。

いわゆる中間利息控除年5%を合法と判断した最高裁判例について、40歳の年収400万の、妻子あるサラリーマン男性が死亡した場合、年5%で控除されて、さらに過失割合で控除されて、はたして残された妻子は何年生活できるのだろうかと著者は疑問を呈し、

ここでも、「明日は我が身」ということを考えていただきたいのである。裁判所と保険会社の「常識」を疑わずにそのまま従っていると、こういう結果になる。民法404条との関係をいう裁判官は多いが、遅延損害金の法定利率を年5%とすることが、論理必然的に将来の損害の中間利息控除を同じ割合で行うことに結び付くものではないと思う。もう少し実質的に適切な、被害者にやさしい解決を考えることもできたのではないか? 交通事故被害者という少数者の犠牲において保険会社やその顧客の利益を図ることになるという結果についての配慮、考慮が全くうかがわれない。むしろ、大企業である保険会社に対して、大きな「理解」と「配慮」を示してあげた判決といわなければならないであろう。(P125)

 

日本の裁判所、裁判官が新しい判断をきらう傾向が強いことの1つの例として、夜間、非常に暗い場所に違法駐車してあった、しかも背面の汚れた大型トラックにバイクが衝突した事案について、従来の判例の流れとは異なった法理、メルクマールを立て、駐車車両の過失のほうがより大きい(65%)と判断した私の判決について、判例雑誌のコメンテイターが、重要部分に引くこととされている傍線を判決の中核部分に引くことすらせず、「本判決の判断は従来の裁判例の流れに沿うものである」という、およそ考えられないような解説を行った例を挙げておきたい(2001年1月26日千葉地裁判決についての判例時報1761号91頁解説。おそらくは、東京地裁交通部の、あるいはかつてそこに所属していた裁判官によるものと思われる。同じ判決についての判例タイムズ1058号220頁の解説と比較すると、違いがよくわかる)。

私の判決を批判したいのであれば、雑誌に名前を出して判例評論を書くことは、先のような裁判官であればできるはずだし、無記名のコメントであっても、私の判決のどこがどのようにおかしいかを論理明快に指摘すればよいのである。そうしないで先のようなねじ曲げコメントを書くのは、要するにちゃんとした批判ができないからであり、にもかかわらずその結論に反対したい(その影響力を減殺したい)からであることは、明らかというほかない。なぜ、このようなねじけたやり方をしてまで新たな判例の展開を封じ込めようとするのか、全く理解に苦しむ。

この判決は、ともかく衝突した車のほうが悪いと決めてかかっていた従来の判例の流れに反省を促した判断として、単独事件の判決であったにもかかわらず三大紙に大きく報道されたが、結局、現在に至るも、孤立した判例のままとなっている。(P142-143)

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