>飲酒運転したけど無事に目的地に着いた場合は飲酒のおかげで無事だった
このリクツだとそうもなりますよね。飲酒と事故は相関関係があるからといって、それを即因果関係ありと乱暴にまとめちゃうのはどうかと思います。事故原因が飲酒だとされたものを精査したら半減したという外国の研究もあったかと。
日本でも、飲酒運転は科学以前の道徳の問題として、説教の種にされることが多い。そのためか、アルコールの影響の研究には否定的結論を前提としたものが多い。
- 431ページ
- 三栄
- 1995/9/1
>「飲酒運転」や「制限速度違反」を事故の原因とするのは、事故発生という結果から遡ってつくりあげた(でっちあげた)ものです。 事故が起こり、そのとき運転手側に「飲酒」とか「制限速度違反」とかの事実が発見されると、それをあらためて事故原因と決めるのです。
これが正しい見方である。
>飲酒しない方が重大加害事故起こしやすいんですよ。 飲酒すると速度出なくなるのが原因と思います。 そこが(自転車と)車との大きな差で車は飲酒しても速度出せちゃいます。
たしかにね。
「個人」としてあるために「法規制は社会の最小限に」
実は、ヨーロッパでは飲酒運転はこんなに厳しくないといわれている。法の取締官でもある裁判官でも飲酒運転をへいちゃらでやっている。運転できるかどうかは自己判断の世界である。飲酒運転に限らず交通規則はかなり緩い。ところが日本では、
交通規則を「親切」なまでに細かく定め、少しでも違反すると厳しく罰するぞとおどしながら事故を未然に防ぐ
(それとくらべてヨーロッパ(ここではドイツ)では)交通規則を守るのは個人の責任にゆだねておいて、結果の責任を厳しく問うのと、どちらが交通安全に向いているかは、いちがいには言えまい。…
ただ、規則を作って取締りを強化することを重視するぶん、個人責任の感覚が薄れていくことはたしかである。「親切」なのも度がすぎると個人が育たない。「法規制は社会の最小限に」と言われるのは、そのためである。
森英樹「人権者はきみだ」P63
- 岩波書店
- 1997/3/21
日本では自転車にまで飲酒で罰することになり慄然とした。規則づくめにして厳罰化するのは「法規制は社会の最小限に」反する。国家権力による法規制=強制力は「最小限に」とどめ、ほかは自立した個人にゆだねる。という申し合わせが西欧にはあるようだ。