他人のブログをみていて、それに触発されて記事を書くことが私の場合よくある。交通事故を起こした後の謝罪についてあるブログでとりあげていたのだが、私には納得できないところがあった。それで、私の思うところを書いてみたいと思った。
交通事故直後の謝罪についてはyahooの知恵袋でもときどき質問があって、「謝罪をしても不利になることはない」という回答があるかと思えば、「決して謝罪してはならない」という回答があり、お互い拮抗して譲らない。私はこの種の質問をみるたびにある著書の一節を思い出す。
私は若いときに海外の一人歩きをしていた。そのときに、リックにつめるのは着替えなどの身の回りの必需品など最小限の持ち物にとどめていた。ただし例外があって、ヒマなときに読書をするため本多勝一の「極限の民族」をリックの底にしのばせていた。私はこの本が大好きで、ヒマがあるとは見返していたし、本多の文章にあこがれていたので、心を落ち着かせたいと思ったときに、旅先で本多の文章の模写をしていた。 その中の一節にこうある。
リヤド市のホテルで、私の部屋は314号室だった。あるとき、受付で自分の番号をいってカギをもらい、部屋の前まで行ったとき、カギが別室のものであることがわかった。受付にもどってカギの番号を見せながら、私は「部屋にはいれませんでしたよ」と、相手を責めないための心づかいで、微笑しながらいった。全く予期しなかった答えが返ってきた――「あなたが間違った番号をいったのです」。
私が予期していたのは、軽くアタマをかいて「や、これは失礼しました」という一言なのだ。この予期は、まあほとんどの国で当たる。だが、ここでは、またしても私は唖然とさせられた。このとき、もし私が初めてアラビア人と接したのだったら「あるいは自分が違った番号をいった可能性も考えられる」と思っただろう。しかしいまでは「正にベットウィン的」と思っただけであった。
自分の失敗を認めること、それは無条件降伏を意味する。そんなことをしたら「人間はすべて信用できない」(Q氏)のだから、なにをされようと文句はいえない。・・・100円のサラを割って、もし過失を認めたら、相手がベットウィンなら弁償金を1000円要求するかもしれない。だからサラを割ったアラブはいう――「このサラは今日割れる運命にあった。おれの意思と関係ない」。
さて、逆の場合を考えてみよう。サラを割った日本人なら、直ちにいうに違いない――「まことにすみません」。ていねいな人は、さらに「私の責任です」などと追加するだろう。それが美徳なのだ。しかし、この美徳は、世界に通用する美徳ではない。まずアラビア人は正反対。インドもアラビアに近いだろう。フランスだと「イタリアのサラならもっと丈夫だ」というようなことをいうだろう。
私自身の体験ではせますぎるので、多くの知人・友人または本から、このような「過失に対する反応」の例を採集した結果、どうも大変なことになった。世界の主な国で、サラを割って直ちにあやまる習性があるところは、まことに少ない。「私の責任です」などとまでいってしまうお人好しは、まずほとんどない。日本とアラビアとは正反対の両極とすると、ヨーロッパ諸国は真ん中よりもずっとアラビア寄りである。隣の中国でさえ、サラを割ってすぐにあやまる例なんぞ絶無に近い。ただしヨーロッパでは、自分が弁償するほどの事件にはなりそうもないささいなこと(体にさわった、ゲップをした、など)である限り「すいません」を日本人よりも軽くいう。
・・・ だが、日本人と確実に近い例を私は知っている。それは、モニ族(ニューギニア)とエスキモーである。モニ族は、私のノートをあやまって破損したときでも、カメラのレンズに土をつけたときでも、直ちに「アマカネ」(すいません)といって恐縮した。こうした実例を並べてみると、大ざっぱにいって、次にような原則のあることがわかる――「異民族の侵略を受けた経験が多い国ほど、自分の過失を認めない。日本人やエスキモーやモニ族は、異民族との接触による悲惨な体験の少ない、たいへんお人好しの、珍しい民族である」。
基本的な「ものの見方について」考えると、ベドウィンの特徴、ひいてはアラブの特徴は、日本の特殊性よりもずっと普遍的なのだ。私たちの民族的性格は、アラビアやヨーロッパや中国よりも、ニューギニアにより近いとさえ思われる。探検歴の最も豊富な日本人の1人、中尾佐助教授に、帰国してからこの話をすると、教授は言った――「日本こそ、世界の最後の秘境かもしれないね」。
私たちが帰国してまもなく見た朝日新聞に「もう泣き寝入りすまい」という投書が載っていた(1965年9月18日朝刊「声」欄)。交通事故で、自分が悪くないのにあやまったりしては大損だという体験談である。アラビア人があれを読んだら、そのあまりにも日本的現象に驚いて唖然とするだろう。かれらなら、たとえ100パーセント自分が悪い場合でも、いうことは常に決まっている――「100パーセントお前の責任だ!」。(P411~412)
本多勝一の「極限の民族」3部作は、本になる前に朝日新聞で報道され大反響だった。本多のいわゆる出世作にあたる。一般読者だけでなく、当の文化人類学者からもおおむね好評を博し、梅棹忠夫・石田英一郎・祖父江孝男・中尾佐助・泉靖一・岩田慶治・米山俊直・石毛直道など学界のそうそうたる文化人類学者たち(注)も好意的な論評をしている。
全く不条理というか、世知辛いです。高いと言われる日本人の民度って何なのだろうと思いますね。でも自分のお客様に不利益を与える訳にはいかないので現実、私もそうアドバイスせざるを得ません。悪しき慣習ですが覆すには誰かが犠牲になって判例を作る、変更するしかないのですかね。
おさくさん、コメントありがとうございます。
これにはつづきがありますので、またごらんになってください。
それと、本の整理をしていたら、この記事で名前を出した石田英一郎氏が、ぼくが引用した本多勝一の文章とまったく同じところをそっくりそのまま引用して(ぼくの引用は若干省略がありますが)、交通事故に言及していましたので、こちらも参考になるんじゃないかと思いました。
追記しますので、あわせて読んでいただければと思います。