ある事故加害者との対話。過失相殺の法理だけでは解決できない問題がある。

以下の対話は、かつてぼくが事故加害者との間で交わした内容である。賛否両論あると思うが、問題提起のためあえて公開した。ただし、このことで議論を再開するつもりはない。

質問

先に、信号のない見通しの悪い交差点があったので徐行速度で通過しようとしたら、右方交差道路から自転車に乗った小学生が猛スピードで突っ込んできたため、私の車の右側面に自転車がぶつかり、小学生は軽症ですが怪我をしました。私には回避可能性がなく、車の修理費だけでも請求したいと思っています。相手が100%悪いのだから、治療費だって払いたくありません。当然のことだと思っていますが、実際にできるのでしょうか。

生活路上の主役は車ではない

こうした質問が来るたびにぼくは憂鬱な気持ちになってしまいます。このケースの場合、自転車側に過失相殺を問うことは可能でしょう。でもよく考えてください。事故現場は自転車が交差道路から飛び出して来るようなところですから、いわゆる生活路にあたるように思えます。そして、そうした生活路の主役は歩行者であり、自転車なのです。車は、そうした主役の邪魔にならないよう注意して通行が許される存在にすぎません。

ところが、現実はそうなっていない。ぼくの自宅周辺の生活路を例にとっても、生活路だから速度を落としてくれる車は少数、その生活路を時速50キロほども出して走行していく車が絶えないのが現実です。夜間になるとその速度が時速60から70キロにスピードアップする。ちなみにこの20年間で1万人以上の子供たちが交通事故で死亡していますが、都市部でのそれは、大半が自宅近くの路上なのです。まずはそうした事実を知ってください。

尾がイヌを振ることはありえない

今回のケースでは、相手小学生が軽症で済んだ幸運にまずは感謝してください。それに比べ、貴方の車の損傷など「へ」みたいなもんですね。ぼくだったら矜持があるから、過失相殺の主張など恥ずかしくてしないし、修理費をよこせなどとはもちろん言いません。

さて、貴方は徐行速度で当交差点に進入したとしています。徐行速度だから、すぐにも停止できる速度、すなわち時速10キロ以下だということになります。メートル換算だと10000m/h以下になる。それだと歩行者や自転車が死傷しないのでしょうか。

そんなことはないでしょう。貴方が乗っていた車は1トンもある巨大な鉄の塊なのです。それに対して、歩行者とりわけそれが体重10キロ前後の子供ならその差は歴然としてくる。1トン=1000キロ対10キロの、100倍の差でしょうか。そのような量的差に目を奪われてしまっていては、ことの本質を見誤ります。交通事故による人身損害は死亡事故につながるし、そうでなくとも重い高度の障害を生涯引きずることにもなりえます。車なら破損した部品をとっかえればすむことでしょうが、人だとそういうわけにもいきません。

すなわち、「車は人との関係で絶対的に優位で危険だとする認識」をまず持つことが重要なのです。イヌが尾を振ることがありえてもが、「尾がイヌを振ることがありえない」。同様に、歩行者が車をひき殺すということもありえないわけですから。過失相殺の法理は、その点を軽視しているのではないかとぼくには思えてなりません(注1)。

(注1)同様の趣旨の意見表明をしている本としては、「交通死-命はあがなえるか」がある。

クルマの安全速度は時速258mだと言われるが・・・

杉田聡氏によると(注2)、こうした場合の安全速度は時速258mだとのことです。ぼくはこの事実を引き合いに出して、時速258m以下で走行しなさいというつもりはありません。杉田氏は、車とはそれほどに危険な存在だということを強調したかったのだと思います。現に、車と歩行者もしくは自転車の事故では、かなりの部分が死傷事故につながっています。物損や軽症事故ですむケースもたくさんあるでしょうが、それは幸運なことなのです。そうした認識に立てば、「まずは感謝すべき」ということになるでしょう。もちろんここでの「感謝」の意味は、自分に不利益がこうむらなかったからといったような自分向きの「感謝」でなくて、相手へ向けた「感謝」です。

(注2)杉田氏の「クルマを捨てて歩く! 」を参考にした。

その後の加害者とのやりとり

(その後の相手加害者からの反論を>以下で示した。)

>修理費を少しでも負担してもらうのが当然だと思います。

 
法律上過失相殺は可能です。でもぼくはそういうレベルのことをここで問題にしているわけではありません。繰り返しになりますが、ぼくは「ぼくだったら」と断った上で、請求しないと言ったまでです。そしてその理由も説明いたしました。それでも請求したい人に対してはぼくは何もいうべき言葉がないだけです。「地獄への道は善意で舗装されている」というローマの格言があるほどですから、善意の押し売りをするつもりはありません。どうぞ請求されてください。そのとき、自分の心に何かひっかかるものがあるのでしたら、もう一度ぼくの文章を読んでいただければ幸いです。ひっかかりのない人にはぼくの説明など不要です。
 

>今回は、小学生は軽症だった。それになのに、死亡事故と比較するのは貴方の偏見だ。

 
車と歩行者もしくは自転車の事故ということでいえば、「子供の飛び出し死亡事故」は決して特異な例とはいえません。死亡事故にならなくても、後遺障害を負ったり大怪我をしたりするなどのケースは後を絶たないのです。今回の事故は言われるとおり軽症事故です。しかし、ぼくに言わせればたまたま幸運にも死亡事故にならなかったにすぎません。いわば例外なのです。ぼくはそうした認識の上で、生活路であるなら、ぼくなら過失相殺を主張したり、修理費を寄こせなどと言わないと主張したまでです。

そして、このケースを単なる軽症事故で片付けてしまうと、車のもつ「絶対的に優位で危険な存在」が隠れてしまう。また「生活路は歩行者や居住者のもの」という視点が欠けてしまう。貴方の視点にそれがまったく欠けていたからこそ、こうした例を出したのですが、まだ理解されていないようです。

>そんなことを言っていたら、現実に道路を走れますか?

 
車の利便性を考えるよりも、人の命のことをもう少し考えてほしいですね。年間に多くの人が死亡しているのです。後遺障害を受けた人も含めると、その総数は「正常」の範囲をとっくに超えている。そうした現実認識に立てば、車が少々不便だからといって何ですか。

偏見について

ついでに、貴方はぼくの意見を「偏見だ・偏見だ」と非難するので、その「偏見」について一言したい。

仰せの通り、ぼくの意見は偏見だらけです。開き直ってそういっているのではなくて、ぼくの意見が偏見であるのと同じ意味で、貴方の意見も偏見なのです。問題は、自分の持つ偏見をどう意識するかでしょう。自分が外界を見ているとき、常に色眼鏡で外界の物事を見ている。自分の色眼鏡がどんな色なのかを自覚しているかどうかはたいへん重要なことです。竹内好という評論家が「偏見は楽しいが、無知では困る」と書いていることに思いをちょっとは寄せてみたらどうでしょうか。
 
ぼくの意見に納得いかなかった方は、どうか、こちらの記事「「人間のための街路」、そして「人間のための都市」」もあわせて読んでいただけたらと思います。
 

コメント

    • 通りすがり
    • 2017年 7月 23日

    偶然この記事が目に留まり読ませていただきましたが、あなたのご意見に目から鱗が落ちるような思いでした。
    私は普段車を使わない人間ですが、車に乗るとしたら恐らくこの加害者のような振る舞いをし、それを当然と疑問にも思わなかったでしょう。車という利便性の高い物の裏に隠れた危険性を認識させてくれるご意見だと思いました。
    仰る通り人の意見という物は殆ど悉くが偏見なのでしょう。物事全ての当事者というのは存在しませんから。そうした偏見を互いに尊重しあえる社会であって欲しいものです。
    長文、お目汚し失礼しました。

      • ホームズ事務所
      • 2017年 7月 23日

      通りすがりさん、コメントありがとうございます。

      この種の記事であまりというか、褒めていただいたのは今回が初めてです。当サイトは書いている本人は全然そうは思っておらず当たり前のことを書いているだけのつもりなのですが、「過激」な記事が多いとの評があるらしく、ときどき、「脅し」めいた感想もいただきます(苦笑)。

      今さらめげる年頃でもないので気にはあまりしていないものの、賛同していただけるご意見は、ぼくのような孤立しがちな人間にとってはたいへんな励みになります。「ひとりでもやる。ひとりでもやめる」の心意気で続けられたらと思っております。

      また、コメントいただけるとありがたいです。

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突然、交通事故にあわれた被害者は、怪我をされたり、車を破損などされたりして大変なことです。その損害の賠償をしてもらうために、これから、加害者そして加害者側の損保担当者を相手に示談交渉を進めなければならなくなります。しかし、交通事故は人生でそう何度も経験するわけではありません。なにをどのようにしたらいいのか途方に暮れてしまうのがふつうです。

ところが、事故被害者がまず相手にするのが加害者であり、そして、実際は加害者側損保の担当者です。損保の担当者はそのことで生計を立てているいわばプロであり、百戦錬磨で鍛えた知識と経験があります。かたや、知識も経験もほとんどない事故被害者。そんな素人がプロ相手にどのように交渉していったらいいのでしょうか。

交通事故に詳しい弁護士が知人にいるような幸運な方は別にして、たいていの方は途方に暮れてしまうことでしょう。一昔前は、素人とプロの交渉ごとということにふつうはなって、プロの思い描くストーリーどおりに押し切られるのがふつうでした。しかし、ネットが発達した現在、示談交渉を進める上での情報がネットを検索すればあふれかえっています。が、その情報は正しいものもあれば正しくないものもある。玉石混淆です。それらの情報に接した事故被害者にとって、どの情報が正しくて信頼できるのかがまずわかりづらいし、自分だけでは手に負えなくて、調査や交渉ごとをだれかに任せることも時に必要になってきます。が、ネット上には、われこそは事故被害者のためだと謳っているものばかりなので、実際にいったいだれを信頼したらいいのかわかりません。

知識とは中立なものであること

ここで注意してほしいのは、情報の正確さもさることながら、その情報(知識)そのものが中立なことです。

昔、東大卒が多い自民党が間違えるはずがないと豪語している自民党支持者に会ったことがあります。ぼくは苦笑するしかありませんでした。たしかに東大卒は勉強をいっぱいしているわけだから、その知識量も多くかつ正確だといえるかもしれません。ただ、知識それ自体はあくまで中立なものであり、どちらにも役に立つ武器なのです。したがって、その正確でたくさんの知識をどちらの側に使うかにある。わかりやすいたとえ話をしてみましょう。

知識は刀という武器と同じ

hitininnno
その昔、武士という職業が存在しました。この武士は帯刀を許された職業のことであり、刀の専門家です。殿様を頂点にして、殿様に雇用され、殿様を守るために武器である刀の技術を日夜みがいていた。

この武器である刀自体は殿様を守るためにも使えるし、農民に加勢して殿様に刃向かうためにも使えます。しかし、悲しいかな、現実は殿様を守るために使われた例が圧倒的に多く、農民に加勢するために使われた例など不幸にしてきわめて少なかった。ごく稀に後者のような武士が現れますが、こういう武士こそ庶民にとっての英雄であり、「七人の侍」はまさにそのようなタイプの武士たちでした。

利益が一致しているか相反しているかが重要

したがって、問題はその使い手自身にあります。使い手がどちらの側に立つかで知識もそれぞれの側の武器になる。そして、その使い手がどちらの側に立つかは双方の利益が一致するか相反するかでふつうは決まってきます。

この、肝心要のことを説明したサイトが皆無といっていいほどにみあたらないのは不思議なことです(というか、あえて否定しているサイトさえいくらでもみつかるくらいです)。

記事を読んでいただければたちどころにわかることですが、当事務所は「立場」を鮮明にしております。あえて鮮明にしているのは、人間や社会に対する見方は、その人自身の立場から自由にはならないからです。中立を装うことは考察を浅くし、論旨を不明確にする。「立場」のない「立場」などありようがない。当事務所の立場は、ぼく自身が社会的弱者であるため、弱者の立場に徹することです。ぼくのような弱虫は「七人の侍」のようには決してなれないけれど、せめてその心意気だけでも真似して、社会的強者に阿らないようにしたい。そういう気持ちで当サイトをたちあげました。よろしくです。

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