宵越しのゼニは持たぬ。ガンになったら放置する。楽しく生きてさっさとくたばる。それがぼくの理想だ

今日も元気だタバコがうまい

ぼくがタバコを吸いだしたのが高校生のころだから、吸い続けてもうウン十年になる。かつては1日1箱ペースだったけれど、5.6年前から2日に1箱のペースになった。健康のために減らしたのではなくて、タバコの値段が上がったのと、ぼくの収入が減ったのというきわめて経済的かつ合理的な理由からだ。今はそのペースに身体がなじんでしまったから、かつてのような1日1箱も吸いたいとは思わなくなった。

とはいえ、タバコをまったくやめるつもりはぜんぜんない。昔、「今日も元気だタバコがうまい」というできのいいコピーがはやったことがあったが、ぼくも元気なうちはスパスパ吸ってその愉しみを失いたくないのだ。そう思っているのだが、昨今はどこに行っても禁煙ばっかりで、気持ちよく吸える場所がなくなった。あれは一種の禁煙ファッショだよ。

以前はどこでも吸えたし、職場でも自由に吸えた。かつての職場はタバコの煙でモクモクとしてけぶたかった。ところが、事務員の女性がガンにかかった。彼女は吸わないから受動喫煙の影響が少なからずあったものと思う。自宅では子どもがいるので受動喫煙にならないようぼくは吸うことはなかったが、職場はほとんどみんなが吸っていたので、そういう配慮にまったく欠けていた。本当にかわいそうなことをしたと思う(ただし、ぼくが退職したころも存命で、その後も風の便りで元気らしいから、ガンではなく「ガンもどき」だったのかもしれない)。彼女の病気を知ってからは、もう後の祭りだけれど、職場で吸わないようにした。

他人に迷惑をかけないよう配慮して、元気なうちはタバコを吸い続けたい。では、元気でなくなったらどうするか。ぼくの家系はいわゆるガン家系だから、ぼくもガンになる可能性が高いように思うし、ガンになったらなったで、その時点でやめてももう手遅れだからやめない。要するに、一生吸い続けるつもりだ。そして、ガンになっても治療は一切しないつもりだ。スッパスッパ吸ってタバコの煙とともにあの世にいきたい。

宵越しのゼニは持たない

ぼくの人生観は、禁煙もしないし貯金もしない(できない)。子どもにも一切財産を残さない。宵越しのゼニは持たない。お金があったらさっさと使う。そして、楽しく生きてさっさとくたばる。死に際にみぐるしく生に固執しない。それが理想だ。そういう人生なら、欲にとりつかれることもないから、家族に迷惑をかけることがあるかもしれないが、人さまに迷惑をかけないですむ。堕落もしなくていい。でも、昨今騒がれている不倫には寛大だけれど(苦笑)。恋愛は自由なほうがいい。少なくとも、他人がとやかく言うすじあいのものではない。

人は必ず老いるし、必ず死ぬ。老いも死もさけようがない。「老い」とは、細胞の遺伝子が傷つき、それが蓄積して、体にさまざまな障害を引き起こす肉体の変化のことだ。だから、ガンも「老い」の1種だといえよう。美容手術でシワを引き延ばす人がいる。が、シワをどんなに引き伸ばしてみても、皮膚自体は老いによる肉体の変化から免れることができない。だから、すぐにまたもとの木阿弥、顔中シワだらけになる。自然の摂理から自由になることなんてできっこないのだ。

ガンと戦うな

ガンだってそれと同じだ。そのように思えば、むやみにガンと戦おうとは思わない。ガンで死ぬか、その前に寿命がつきるか、そういう共存関係を意識したほうが人生をよほど幸せに終えられるとぼくは思っている。ガンは放置にかぎる。ぼくはそう信じているので、外科手術だの抗がん剤治療だのは一切やらない(注1)。

(注1)

ガンといっても抗がん剤治療で完治可能なガン(たとえば悪性リンパ腫などの血液性ガン)もあるので、すべてのガンがそうだという意味ではない。なお、ガンは放置に限るについては近藤誠の「がん放置療法のすすめ」を一読されたい。


 
点滴も、チューブ栄養も、昇圧剤、輸血、人工透析も一切しない。延命治療も一切拒否する。もし痛みで寝られないなら、そのときは、モルヒネなどの緩和ケアだけしてもらおう。死の間際にタバコが吸えるかはわからないけれども、もし可能だったら、映画にある最後のシーンのように、一服してあの世にいきたい。

あ、そうだ。ぼくがこの文章を書こうと思ったのは、ガンになったときの心積もりについて書くためではなかった。自分が亡くなるとき、子どもに一切財産を残さないことをここで強調するためだった。そのことを忘れて、ガンのことばかりに脱線してしまった。

文化資本も相続される

ぼくは中学生のころから、世の中は不自由で不平等で不条理だと思っていた。そんなふうに思うきっかけになったのは、自分の同級生をみていて、頭のいいやつは、親も高学歴で比較的お金があって、家もりっぱで、言葉遣いも丁寧、文化的素養((注2)高い文化資本のこと)にも恵まれた上品な家庭に育っていた。それにひきかえ、ぼくときたら、うちの両親はそろって低学歴だし本など読んでいる姿をこれまで一度も見たためしがない。お金もあんまりなくて、家も立派とはいえず、ぼくは方言丸出しの、文化的素養がまったくない家庭に育った。ぼくの家などは親が公務員の「端くれ」だったからまだしもましだったが、もっと悲惨な家庭の子どももたくさんいた。

(注2)

「文化資本」とは、ピエール・ブルデューの造語。彼の著書「遺産相続者たち」によると、親から「相続」されるのは財産だけでなく、学歴もそうだし、頭のよさも容姿のよさも文化資本も「相続」される。それらが親→子という形で相続され、階級として固定化されることを社会学的手法で実証した本。

 
中学生のときの担任の教師は、みんな無限の可能性がある、努力しさえすれば目的は達成できると好んでしゃべっていた。それはウソだと、ぼくはそのタテマエばっかり言う教師が嫌いだった。子どもの学力が親の「財力」と「教育意欲」と「文化資本」に左右される。そして、往々にして学歴は親子間で再生産される。人間の能力は育った環境によって決定されるのである。

裕福な家庭の子どもたちは頭がよく、当然のように大学に進み、高学歴を得て、高い報酬が得られる仕事にありつくことができる。親が一流企業の管理職というだけで、やはりその子どももまた一流企業に就職できた。大学の当時に下宿した先のぼくの同級生たちをみても、親が東京電力の幹部ならその子どももまた東京電力に就職したし、親が毎日新聞の役員なら、その子も毎日新聞社に入社した。親が公務員ならその子もまた公務員というように。

彼らは実にスマートに生きていた。庶民出のぼくにはとうてい超えられない障壁を常に感じた。こういう傾向は今はもっとひどくなって、進歩的といわれる岩波書店が、公然と社員の縁故採用を募集するしまつだ。結婚相手も、同じ価値観の、家柄、学歴を共通にする例が非常に多かった。つまり結婚というものが富裕層の固定化・強化を促進しているのである。

人は生まれながらにして不平等なのだ

人は生まれながらにして不平等なのである。容姿や頭のよさは遺伝し、財力や学歴も親子間で「相続」され、結婚を通じて「再生産」される。このように、生まれたときから、財力、容姿、頭のよさ、文化的素養というハンディーを負わされているのが現実である。

富裕層に属する人たちは、努力する者が報われる社会でなければいけないと、バカの一つ覚えのように強調する。もしそう本気で思うのだったら、せめてスタートラインにおいてすべての人に「機会の平等」を保障しなければならないだろう。どれだけ努力したのかだけを価値基準のモノサシとするのなら、自分以外の、親の財力とか、コネとかは、個人の努力を測る上での阻害要因だからである。

ガルブレイスだって、こう言っている。「一生懸命働く人は褒めたたえられる。しかし、称賛を口にするのは、褒められた人が味わったような労苦を免れた人、もしくは汗水たらすことを上手に回避できた人がほとんどである」(注3)。

注3

 ガルブレイスの「悪意なき欺瞞」に出てくることば。

子どもに財産を残してはならぬ

遺伝的要素である頭や容姿のよさというハンディーはもうどうしようもないけれども、せめて、親の財産を子どもに残さないような政策をとることは人為的に可能なのである。そのための第一歩は、富裕層に属さないぼくのような庶民層は、親から子へと財産を相続させることに疑問を持つことだし、自らそれをしないことだ。そういう空気が庶民層に広まらないと、格差社会はますます拡大・再生産され、階級として固定することになる。

そう思っていたところ、ぼくと気の合う行政書士の先生が、子どもに財産を残すことの弊害について記事にされていたので、最後に引用したい。

一つ目は‘争続’です。
付き合いが途絶えたきょうだいを何人も見ています。
これを自分の子ども達にやらせたくないです。

二つ目は‘人間は大金手にしたら堕落する’という教えです。
人間は弱いです。
手に入れた金額分努力の量が減ります。

三つ目は子の達成感が奪われることです。
人の成長には自らの努力で得た達成感が欠かせないという考えです。
私も子ども達を不幸にしたくないので。

 

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知識とは中立なものであること

ここで注意してほしいのは、情報の正確さもさることながら、その情報(知識)そのものが中立なことです。

昔、東大卒が多い自民党が間違えるはずがないと豪語している自民党支持者に会ったことがあります。ぼくは苦笑するしかありませんでした。たしかに東大卒は勉強をいっぱいしているわけだから、その知識量も多くかつ正確だといえるかもしれません。ただ、知識それ自体はあくまで中立なものであり、どちらにも役に立つ武器なのです。したがって、その正確でたくさんの知識をどちらの側に使うかにある。わかりやすいたとえ話をしてみましょう。

知識は刀という武器と同じ


その昔、武士という職業が存在しました。この武士は帯刀を許された職業のことであり、刀の専門家です。殿様を頂点にして、殿様に雇用され、殿様を守るために武器である刀の技術を日夜みがいていた。

この武器である刀自体は殿様を守るためにも使えるし、農民に加勢して殿様に刃向かうためにも使えます。しかし、悲しいかな、現実は殿様を守るために使われた例が圧倒的に多く、農民に加勢するために使われた例など不幸にしてきわめて少なかった。ごく稀に後者のような武士が現れますが、こういう武士こそ庶民にとっての英雄であり、「七人の侍」はまさにそのようなタイプの武士たちでした。

利益が一致しているか相反しているかが重要

したがって、問題はその使い手自身にあります。使い手がどちらの側に立つかで知識もそれぞれの側の武器になる。そして、その使い手がどちらの側に立つかは双方の利益が一致するか相反するかでふつうは決まってきます。

この、肝心要のことを説明したサイトが皆無といっていいほどにみあたらないのは不思議なことです(というか、あえて否定しているサイトさえいくらでもみつかるくらいです)。

記事を読んでいただければたちどころにわかることですが、当事務所は「立場」を鮮明にしております。あえて鮮明にしているのは、人間や社会に対する見方は、その人自身の立場から自由にはならないからです。中立を装うことは考察を浅くし、論旨を不明確にし、自己を無責任な立場に置くことになる。「立場」のない「立場」などありようがない。当事務所の立場は、ぼく自身が社会的弱者であるため、弱者の立場に徹することです。ぼくのような弱虫は「七人の侍」のようには決してなれないけれど、せめてその心意気だけでも真似して、社会的強者に阿らないようにしたい。そういう気持ちで当サイトをたちあげました。丸山真男のことばを最後に引用しておきます。

丸山真男から

ゲーテは「行動者は常に非良心的である」といっておりますが、私たちが観照者、テオリア(見る)の立場に立つ限り、この言葉には永遠の真実があると思います。つまり完全にわかっていないものをわかったとして行動するという意味でも、また対立する立場の双方に得点と失点があるのに、決断として一方に与するという意味でも、非良心的です。にもかかわらず私たちが生きていく限りにおいて、日々無数の問題について現に決断を下しているし、また下さざるを得ない。純粋に観照者の立場、純粋にテオリアの立場に立てるものは神だけであります。その意味では神だけが完全に良心的であります。

私たちの社会というものは、私たちの無数の行動の網と申しますか、行動の組合せから成り立っております。社会がこうして私たちの行動関連から成り立つ限りにおいて、私たちは行動あるいは非行動を通じて他人に、つまり社会に責任を負っています。その意味では純粋に「見る」立場、ゲーテの言う意味での完全に良心な立場というものは、完全に無責任な立場ということになります。

したがってこの点でも神だけが、完全に無責任でありうるわけであります。認識することと決断することとの矛盾中に生きることが、私たち神でない人間の宿命であります。私たちが人間らしく生きることは、この宿命を積極的に引き受け、その結果に責任を取ることだと思います。この宿命を自覚する必要は行動関連が異常に複雑になった現代においていよいよ痛切になってきたのです。

世のなかには一方では、認識の過程の無限性に目をふさぎ、理論の仮説性を忘れる独断主義者もいれば、またそもそも認識の意味自体を頭から蔑視する肉体的行動主義者がいます。しかし他方その半面では、物事はそう簡単にはイエスかノーかきめられないのだ、もっとよく研究してからでなければなんともいえないという名目の下に、いつも決断を回避することが学者らしい態度だという考え方がかなり強い。

あるいは対立する政治的争点に対して、あれももっとも、これももっとも、逆にそれを裏返しとして、あれもいけない、これもいけないということで、結局具体的な争点に対して明瞭な方向性を打ち出すことを避ける態度をもって、良識的であるとか、不偏不党であるとか考える評論家やジャーナリストもかなりいるようであります。

たびたびゲーテの言葉を引いて恐縮ですが、ゲーテはこういうことをいっています。「自分は公正であることを約束できるけれども、不偏不党であるということは約束できない。」今申しましたような世上いわゆる良識者は対立者に対してフェアであるということを、どっちつかずということと混同しているのではないでしょうか。
「現代政治の思想と行動」丸山真男 P452-454

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