子供の飛び出し事故と過失割合

子供の飛び出し事故というのがよくあります。たいていは生活路での発生が多いと思います。悲惨な例もいくつか担当したことがあり、ある子供は頭蓋底骨折だったので、親の前で「えぇ」とつい声を上げたこともあります。

他にも高次脳機能障害だとか脳挫傷だとか、思い出しただけで、それが自分の子供だったらと思うと、血の気がひきそうになります。

近所のおっさんが勝手に白線を引き出した

もう5年も前のことです。私の自宅前の道路で、近所に住むおっさんが路面に白線を引いておりました。自宅前の道路はいわゆる生活路なのに、昼間も夜も高速で通過していく車が絶えません。この道路は小学生や中学生の通学路であるだけでなく、近くにある幼稚園の子どもたちが保母さんの引率のもとよく歩いている道路なのです。

そういうことがあるため、白線をひいて車のスピードを少しでも落とそうという、やむにやまれない気持ちから近所のおっさんが勝手に停止線としての白線を引いていたのでした。

白線を勝手に引いていいのかよと私はふと思ったのですが、おっさんいわく、警察に頼んでもすぐには対応してくれない。だったら自分で白線をひこうと思い立ったというわけです。警察は、交通規制は道路標識と道路標示の2点で規制するのが原則だから、道路標示である路面の白線だけなら警察の関与するところではないので、勝手にやるならいいと言ったそうです。

本当にそんなこと言ったのか? 「勝手にやるならいい」という部分に自分に都合のいい解釈がはいっていないのだろうか。そんな気がしたけれども、おっさんがいうように、警察にお願いしてもいつ対応していただけるのかわかりません。

その間に、子どもたちが車の犠牲になることだって十分ありうることです。自宅前の道路上での、歩行者と車の接触事故こそありませんが、車同士の接触事故はこれまで何度もあったし、対向車が猛スピードで飛ばしていたため避けようして電柱にぶつかった誘因事故だってありました。

だから、私はおっさんのやっていることが仮に違法だったとしても責める気にぜんぜんならなかった。むしろ心のどこかでよくやってくれたと賞賛したい気持ちでした。

特記

行政がなかなか動かないため、業を煮やし、市民が自力救済的というか、ゲリラ的に動いて、交通安全のための行動に訴えるということが欧米でときどき報道されている。このことをかつて記事にしたことがあり、「交差点内にたった3つ三角コーンを置いただけで右左折車の速度が低下したとの報道」もその一例である。

また、イギリスの例だが、保険会社が速攻で簡易な横断歩道を設置した動画があった。これもこの機会にご紹介しておこう。

なかなか粋なことをやるんだね。

踏みつけにされた巻尺

それで、私もちょっとは協力してあげなきゃという気持ちになって、巻尺を忘れてきたらしいおっさんに私の巻尺を貸してあげました。ところが、それから30分もしないうちにおっさんが自宅にやってきました。

「申し訳ない。巻尺を使って計測していたら、そこへ車が猛スピードで通過して巻尺を踏みつけていきやがった。車はとまらずにそのまま行ってしまったのでどうしようもなかった」と謝罪しに来ました。壊れた巻尺をみると、数値がはいっているロッド面がほとんど引きちぎられている状態でした。

【踏みつけられた巻尺】

子どもたちがそばにいようが、ところかまわず猛スピードで通過していく車たち。器物を壊しても停止しようともしない車たち。おっさんが白線をひく1時間ほど前に、市の公有車が、「交通安全、お互い譲り合いの気持ちを・・・」と広報して自宅前を通り過ぎていたのですが、その文句のむなしさ、白々しさ。

生活路上での子供の飛び出し事故や自転車に乗っている子供の飛び脱し事故は非常に多い。そのたびに、どうして一方的に車側が責められるのかという意見を聞きます。私はそれが生活路上で起こったということなら、一方的に責められてもしかたないと思います。そのことについて下記の記事で詳しく書きました。

ある事故加害者との対話。過失相殺の法理だけでは解決できない問題がある。

交通安全教育が子供に過失を問うための口実にされている

この画像は、警察が交通安全を啓蒙するために、小学生にお話をしているところです。

三島市立坂小学校HP」より

「子どももルールをきちんと守って」もらうための啓蒙です。私も自分の子どもが小さいときは口すっぱく「クルマに気をつけて」「急に飛び出したらダメ」「道路で遊んだらダメだ」などと言っていました。

このこと自体はやむをえないことです。現代の子どもは、このようにして小さなときからクルマの危険について学ばざる得ないからです。

しかし、子どもとは本来遊ぶものだし、注意力散漫だし、視野も狭い。それがクルマの通る道路だったとしても、大人がいくら道路で遊んではいけないと言っても、子どもは遊びに熱中し、ほかのことにおルスになります。

道路で遊ぶなといってもそれは難しいことです。みなさん、子どものころのことを思い出してください。道草くいながら友達とわいわいがやがやするのが子どもたちのふつうの風景だったはずです。その道路がいわゆる生活路だったらなおさらそうです。

ところが裁判所は、子どもは小さいときから交通安全教育を受けているし、親などからもそのように「しつけ」をされていることを理由にして、子どもに「過失」を押し付けているという杉田聡氏の指摘がありました。

これが事実なら、子どもたちが交通安全の教育やしつけを受ければ受けるほど、子どもたちに過失を問えることになる。そして、自動車側の罪を軽くし、免責することになりえる。なんて皮肉なことでしょう。交通安全教育に熱心に取り組んでいる婦警さんだって、こんな評価をされたのでは、むなしくなるにちがいありません。

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子供の事理弁識能力

子供に過失を押し付けている事実があるのかどうか。そのあたりの事情を知りたくて、法律上どうなっているのかを調べてみました。ちょっと長くなりますが、潮見佳男「債権各論Ⅱ 不法行為」から引用します。

「責任能力」と「過失」は別々の制度目的に基礎づけられる概念でして、「責任能力がないから」と言って「過失を犯す能力がない」ということになりません。まして、責任能力は「他人の権利を害しないように行為すべき義務」に違反した加害者について問題となるのに対して、過失相殺で問題になっているのは、損害の公平な分配という観点から見たときに自己危険回避義務に違反した被害者への不利益の転嫁なのです。

判例も、「722条2項の過失相殺の問題は、不法行為者に対し積極的に損害賠償責任を負わせる問題と趣を異にし、不法行為責任者が責任を負うべき損害賠償の額を定めるにつき、公平の見地から、損害発生についての被害者の不注意をいかにしんしゃくするかの問題に過ぎない」ことを理由に、「被害者たる未成年者の過失をしんしゃくする場合においても、未成年者に事理を弁識するに足る知識が具わっていれば足り、未成年者に対し不法行為責任を負わせる場合のごとく、行為の責任を弁識するに足る知能が具わっていることを要しないものと解するのが相当である」と述べています(最大判昭和39・8・24:自転車を2人乗りしていて8歳1か月と8歳2か月の男子が生コン運搬車に轢かれ死亡した事件を扱ったものです)。

もっとも、ここで、この判決が「被害者たる未成年者の過失をしんしゃくする場合においても、未成年者に事理を弁識するに足る知能が具わっていれば足り・・・」としている点に注目してください。過失相殺をおこなうためには被害者に責任能力が備わっている必要はないとしつつ、他方で、「事理を弁識するに足る知能」は必要だとしているのです。この知能を備えた能力は、事理弁識能力と言われています。

過失相殺をするには、被害者に責任能力が備わっている必要はないものの、事理弁識能力は備わっている必要があるのです。自分の行動が「善いことか、悪いことか」とか「おこなってよいこと、許されることかどうか」といったことについて認識できる能力は要らないが、「自分がこれから何をしようとしているのか」ということについて認識できる能力は必要だという意味で考えればよいでしょう。ちなみに、裁判例では、事理弁識能力として、大体6歳前後が一応の目安になっています・・・。(P103~104)

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10歳以下の子供の交通安全教育は無効

このように裁判所は

「自分がこれから何をしようとしているのか」ということについて認識できる能力は必要だという意味で考えればよいでしょう。ちなみに、裁判例では、事理弁識能力として、大体6歳前後が一応の目安になっています。

として、小学校の1年生か幼稚園児くらいなら、「自分がこれから何をしようとしているのか」ということについて認識できる能力があると考えているようです。

そのように考える背景としては、親のしつけや幼稚園・小学校での「交通安全教育の有効性」を信じて疑わない姿勢があります。

しかし、本当に有効なのでしょうか。「交通事故学」(石田敏郎著・P113)にはこういう指摘があります。

学校などが幼児や低学年向けに行う交通安全教育は、あまり効果がないといわれている。「10歳以下の子どもは近代的な交通にうまく対処する感覚、あるいは認知能力を持っていない」(児童心理学者のサンデルス)からだという。

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サンデルスの観察について、さらに詳しい説明が平尾収氏の著書にありましたので、そこからも引用します。

そもそも子供というものは、心身の発達の過程にあって、道路で安全に行動するための技能や習慣をまだ身につけていないということで危険な存在と見なして対応する必要がある。

子供の登下校のときの歩き方をそれとなく観察すると、10歳以下の子供では、大人が交通事故の危険を念頭におく現実とは全く別の楽園の世界に住んでいるかのように行動することを認識させられる。子供が道路を歩くときの観察で、昔から繰り返し指摘されていることを総合すると次にようになる。

…子供は交通ルールや交通システムの構造を充分に理解していないために、行動を起こすときの危険に対する注意の「計画の枠組み」はまだ不完全で、認知可能な知覚の範囲は自己中心的に極めて限られた範囲にかたよっている。

その上、気が散りやすいので注意の「計画の枠組み」が不安定で、危険探索への注意配分の水準が変動しがちである。さらに、幼児にとっては交通標識があっても理解できないので、これはないのと同じことである。

…子供の、このような危険認知の限界に光を当てるための組織的な路上観察がサンデルス(Sandels)により初めて行われ、その結果が1975年に報告された。そこでは、今日の複雑な交通環境に子供を適応させて、安全に行動させることはできないのだという前提に立って交通システムを設計しなければならないことが指摘されている。

さらに、英国のピースとパターソン(Pease&Preston)の研究も。

子供に道路を横断するときの安全の確認方法を覚えさせるために「右を見て、左を見て、もう一度右を見て、手を挙げて」渡りましょうというように、安全確認の手順を調子のいい標語的表現で教えたところ、これをお題目のように唱えはするものの、肝心の確認は伴わず、中には「手を挙げれば」危険から身を守れるものと信じる子供もあることがわかったとし、6歳以下の幼児では「右」「左」を自分からの方向とは理解できずに、「右」という事物、「左」という事物と誤解する場合が多いといっている。

他にもこの種の研究はいくらでもあるのですが、法律家は見ないのでしょうか。極めつけは、最後にご紹介する裁判例。犬に吠えられ、恐怖のあまり道路に飛び出しタクシーに轢かれた4歳11か月の幼児に「飛び出し行為の危険性について十分認識し得た」として、30%の過失相殺をしている例さえあります。

事例はいわゆる生活路上で起きたことです。親の責任を問うならともかく、4歳の子どもに危険が認識できるはずだと責任を押し付ける。どこをどうひっくり返したらこんな結論になるのか。これが公平の正体なんですね。ただただあきれかえるばかりです。

親の責任

事理弁識能力がないと子供が判断された場合、子供の過失は問われません。しかし、子供を監督する義務がある親権者が賠償責任を負うことになります。

この種の事故の場合、子どもに目を離すなということになって、親の責任が追及されることが多いのです。が、これも限度ものだろうと思うことがあります。24時間、四六時中監視するなど現実の問題として果たしてできるのかと思うのです。

このことを考えるうえで、たとえば「「親は子どもから目を離さないで」、日常で100%できる? あっという間は「0.5秒」、事故を防ぐには”」という朝日新聞の記事がたいへん参考になりました。

目を離さないという対策に限界があることを裏付けるような、科学的なデータもあります。

産業技術総合研究所で子どもの事故予防を研究するグループは2010年~11年、11カ月~4歳の幼児19人に協力してもらい、実験用のマンションの部屋で、遊んでいるときに偶然転ぶ様子を計104回記録。映像やセンサーのデータを分析して、倒れ始めてから、尻やひざが床につくまでの秒数を調べました。

結果は、平均で約0.5秒。

では、子どもから目を離さなかったとして、0.5秒で出来ることを考えてみます。

実験した産総研の西田佳史・首席研究員(47)によると、人間は物が動くのを目でみて、何か行動を始めるまでに0.2秒かかるため、目の前で倒れそうな子どもを助けるには、残り時間は0.3秒しかありません。

子どもとの距離が1メートルだったとしても、大人が止まった状態から動き出すことを考慮すれば、最終的に時速約24キロの速さで動かなければならないそうです。

「目を離さない対策は、科学的にも無理がある。極端にいえば、ずっと子どもに触れて支えておく対策しかなくなる」と話します。

西田さんによると、安全に配慮された製品を使ったり、子どもの手が届くところに危ないものを置かなかったり、身の回りの環境を改善することが重要といいます。

このケースは子どもの転倒事故ですが、それを親が防止することがいかに困難なのかがわかります。

同様なことは交通事故についてもいえそうです。もちろん、中には親がちょっと注意すれば防げた事故も多い。が、一部には過度に親に責任転換しているようなものも見受けられます。

西田さんは、「身の回りの環境を改善することが重要」だとしています。交通事故に関する「身の回りの環境」とは何でしょうか。それは道路環境であったり、車がやたら多い車優先の考えから、公共交通機関の拡充への政策の転換だったりするはずです。

宇沢弘文は、こう書いています。

日本における自動車通行のもっとも特徴的な点を一言にしていえば、歩行者のために存在していた道路に、歩行者の権利を侵害するようなかたちで自動車の通行が許されているという点にある。

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子供の飛び出しなどの事故に関する判例

札幌地裁 昭和45年5月27日判決
夜間、2階の窓から被告車が停車している路上にペンを落とし、幼児(男・2歳5か月)がそれを拾いに出たため、発進した被告車にひかれて死亡した事故。自動車運転者が停車中のの自動車を発進させるときは、単に運転席から見通しうる範囲内の安全を確認するだけでは不十分であり、自ら自動車の前方に回ってみるなどして死角の範囲内の安全をも確認すべき注意義務があるとした。他方、幼児が出たのを知りながら放置しておいた母親に過失ありとして、40%の過失相殺をした。

 

千葉地裁松戸支部 昭和50年7月2日判決
駐車中の移動図書館車で図書を閲覧中、車に装置された閲覧台に幼児(男・2歳9か月)の眼が触れて負傷した事故につき、「運行」による事故とはいえず自賠法3条の適用はないとした。また、右事故につき、閲覧台の角は金属製で先端が下方に緩やかに曲がり、少しギザギザにとがっているが、利用者あるいはその保護者が通常の注意を払えば何ら危険なものではないから、この角を被覆する等の義務があったとはいえないし、また閲覧台の設置または管理に瑕疵があったとはいえないとして、移動図書館車の所有者である市に国家賠償法2条の責任及び使用者責任を認めなかった。

 

福島地裁いわき支部 昭和50年10月20日判決
加害運転者が積荷を降ろし終え発進準備をしていた時点において加害車両からわずか1.1m程度しか離れていない地点に歩きはじめてまもない幼児(男・満1歳6か月)がいることを認識していたのにそのまま発進して左後部車輪でひいた事故。運転者はクラクションを鳴らすなどの事故の発生を未然に防止すべき注意義務があり、信頼の原則は適用されないとした事例。当該事故において、母親としての監護義務を怠った被害者に50%の過失相殺をした。

 

山口地裁宇部支部 昭和55年1月28日判決
犬に吠えられた女児が広場から道路(幅員4.1m)に飛び出しタクシーに轢かれた事故。広場の向かい側にカーブミラーが設置されており、16.5m手前から広場の状況を見ることができるとして、タクシー運転者の注意義務違反とした。他方、4歳11か月なら飛び出し行為の危険性について十分認識し得たものとして、30%の過失相殺をした。

 

佐賀地裁 昭和55年8月12日判決
停車中のバスの後方から飛び出した幼児(女・6歳)が対向の大型バスと接触した事故。現場は国道片側1車線路(幅員6.5m)。バス運転手としては、停留所に停車中の路線バスの後方の安全確認ができない以上、不測の事態に備えて減速し、クラクションを鳴らす等の注意義務があるとして注意義務違反の過失を認めた。他方、停車中のバスの後方から飛び出した幼児に60%の過失相殺をした。

 

神戸地裁 昭和58年2月28日判決
被害者(男・1歳9か月)が、マンションの駐車場に進入して左折しようとした加害車(普通貨物自動車)に近づき、左前付近に接触、転倒して、轢過され死亡した事故。同駐車場内の八百屋の出店で買物をしている間、被害者の手をつなぐなどの監視を怠った母親にも過失があるとして、10%の過失相殺をした。

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